本土決戦兵団
断部隊懐古録
(令和4年1月19日更新)
※写真は冊子版のもの
本書は、元第五十三軍司令官専属副官だった山本明氏(元陸軍大尉)が、同軍の戦友会(軍司令部職員が主体)である「赤柴会」の会員に募って手記を集め、昭和46年9月に第一集、同47年3月に第二集、同47年5月に第三集、同47年10月に第四集、同52年4月に第五集をそれぞれ発行したものに、いくつかの記事を追加して平成10年に合冊・刊行したものです。
しかし、この貴重な資料の配布先はその性格上ほぼ「赤柴会」会員に限定されていたため、今現存が確認されているのは監修者(森下)が山本氏のご生前に委ねていただいた一冊だけであり、今後散逸・埋没する危惧があった。そこで、平成29年春再刊の『近衛師団司令部乃人々 正・続』に続き、誤字・脱字等を修正した上で再び世に送り出すことにしたものです。 表紙に大書されている「断」とは、本土決戦のために第十二方面軍(東部軍管区と二位一体の作戦軍)隷下に編成された第五十三軍の通称号であり、最初で最後の軍司令官は、その勇猛果敢さから「鬼の赤柴」とも呼ばれた赤柴八重蔵陸軍中将でした。また、軍司令官を補佐する軍参謀長は小野打寛陸軍少将でしたが、二人の前職は、それぞれ近衛第一師団長と近衛第一師団参謀長でした。つまり、赤柴中将は第五十三軍司令官に就任するに当たり、強く信頼していた小野打参謀長をそのまま第五十三軍に連れて行く格好となったわけです。この時、近衛第一師団司令部からは他にも多くの人が同時に転出しており、本書の編者である山本明陸軍大尉や小野打参謀長の副官だった阿部長蔵陸軍大尉もその中の一員でした。因みに、この時、同じく赤柴中将に信頼されていた近衛第一師団参謀の古賀秀正陸軍少佐はそのまま師団に残留したため、終戦前夜、「宮城事件(八・一五事件)」に巻き込まれて自決するに至るという悲劇も起こりました。
第五十三軍司令部は昭和二十年四月に編成完結、その作戦任務は、「昭和20年4月以降第12方面軍司令官の統率の下、相模湾方面の防衛に任ずると共に進攻し来る敵の主攻勢が鹿島灘・九十九里浜等の爾他正面に指向せられたる場合は軍当面の敵に対し概ね戸塚・厚木・秦野附近以南の地区に於て持久し方面軍主力の決戦を容易ならしむ。」とあり、その隷下部隊には、「第34師団・第140師団・第316師団・独立混成第117旅団・独立戦車第2旅団・軍直轄部隊」がありました。同軍の作戦地域は、「神奈川県(但し、極楽・川口―北鎌倉駅―杉田を連ねる線以南の三浦半島・横浜市及川崎市を除く)」、「静岡の一部(但し富士川以東の地区)」、「東京都の一部(浅川及其の合流点以東の多摩川以南地区)」という非常に広大な地域でした。
第五十三軍司令部は、昭和20年3月末に要員の人事発令があり、4月4日、小野打大佐以下の基幹要員が名古屋市に集合。4月6日夜列車で名古屋を出発、翌日午前9時頃座間に到着して陸軍士官学校の旧留学生校舎に入った。翌4月8日、赤柴中将が専属副官要員だった山本中尉を伴って座間に到着し、軍司令部編成完結式を挙行しました。軍司令部はここで約1か月間業務を実施し、5月頃、神奈川県愛甲郡玉川村(昭和30年2月1日に厚木町等と合併し厚木市となる。)の玉川村国民学校(現在の厚木市立玉川小学校)校舎に移転。一方、第五十三軍隷下の各部隊は、本土決戦のため沿岸地域に防御陣地を構築したり練成訓練を実施したりしていましたが、昭和20年8月15日に終戦の詔勅の玉音放送となり、本土決戦は幻となりました。
これ以降は、いわゆる「厚木航空隊事件」や一部隷下部隊の動揺があったものの事なきを得て、将兵の復員業務と並行して進駐軍の受入れや終戦処理を実施することとなりました。
また、終戦直後から連合軍の進駐に備えて第五十
本書に収録されている手記は、一部を除き元第五十三軍司令部職員のものが主体であり、概ね個人目線で軍司令部内部や人々の動きが描かれています。また、大半の手記は昭和40年代後半に書かれたものであるため、所々記憶違いや曖昧な部分はあるものの、具体的かつ臨場感ある記事が多く、また、終戦間際の軍レベルの記録はあまり多くはないのでその点においても貴重なものであると思料します。 ● 規格: A5版、媒体:DVD−R、ファイル形式:PDF、白黒、162頁 ● 著者: 第五十三軍戦友会「赤柴会」、元第五十三軍司令官専属副官 陸軍大尉 山本明 ● 監修: 陸上自衛隊二等陸佐 森下 智
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