気球聯隊跡

旧気球聯隊第二格納庫

大正2年、埼玉県所沢で気球隊が編成され、同年10月現在地に転営、昭和11年5月30日に気球聯隊に昇格した。 この部隊は、帝国陸軍唯一の気球部隊であり、それゆえ聯隊番号はない。

気球聯隊の任務のひとつに「風船爆弾」による米本土の攻撃があった。 現在の福島県いわき市勿来、茨城県北茨城市大津、千葉県一宮町の3ヶ所から、終戦までに約9000個に及ぶ風船爆弾が放たれた。 風船爆弾の気球部分は、東京、大阪、京都等で周辺地域の女学生らを動員して製造された。 風船爆弾には高性能の自動高度調整装置がつけられており、偏西風に乗って米国本土まで到達するよう設計されていた。 打ち上げられた約9000個のうち、偏西風にのって285発がカナダとアメリカに落下、何件かの山火事を発生させることに成功した。 昭和20年5月5日には、オレゴン州の森林公園でこの風船爆弾が爆発し、ピクニックに来ていた子供5人と牧師夫人の6人が死亡するという事故も起きた。

左の写真は、旧第二格納庫で、現在は川光倉庫株式会社の米倉庫として現役で使用されている。 所在地は、千葉市稲毛区作草部1−33−26。 タウンライナー作草部(さくさべ)駅から北へ約400メートルの地点にある。 この格納庫は、スレート屋根と分厚いコンクリートでできており、戦時中はもう一棟、道路を隔てた向かい側に三角屋根の格納庫があったが、戦後解体され現在は公務員住宅にになっている。 

聯隊の跡地は、現在、川光倉庫、作草部幼稚園、千葉県営作草部住宅、千葉県計量検定所などになっている。

川光倉庫裏手に残るコンクリート塀

上の写真の路地に入ると川光倉庫の敷地沿いに陸軍時代のものと思われるコンクリート塀が残っている。

格納庫跡

川光倉庫の向かい側にある公務員住宅は、三角屋根の格納庫の跡地に建っている。 格納庫の痕跡は、敷地の隅に若干転がっているコンクリート片くらいしかない。

北西側から見たところ

聯隊の北西側、歩兵学校との間を通っていた軍用軽便鉄道跡(千葉〜津田沼〜松戸)から見た格納庫跡の公務員住宅。一段高くなっているところから向こう側が聯隊跡。

(平成13年9月6日掲載)


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