(其ノ二)
戦艦ミズーリとアリゾナメモリアル 上の写真は、無理な姿勢で撮影したので画面が傾いているが、戦艦ミズーリ上からアリゾナ記念館を撮影したところ。 海面に並ぶ白い物は、当時艦艇を係留していたもので、それぞれ当時繋がれていた艦名が書かれている。 ミズーリが現在接岸している写真左の浮き桟橋は当時はなく、戦艦オクラホマが係留されていた。 因みに、この浮き桟橋の一番奥の広場のようなところでは、勝利の象徴たるミズーリにあやかって頻繁に米太平洋軍の昇進その他のセレモニーが開かれており、アリゾナメモリアル側から抗議がよくあるそうである。 アリゾナの左奥に見えるのは数年前にかけられた海軍の橋で、今は許可を受けた車両はフォード島まで車で行くことが出来る。 下の写真は、ミズーリの甲板上の様子。 ミズーリは、アイオワ級戦艦の3番艦として1941年1月6日にニューヨーク州ブルックリンにあるニューヨーク海軍造船所で起工、3年後の1944年1月19日に竣工、同年6月11日に就役。 就役したミズーリは、1945年1月27日、ミッチャー中将指揮下の第58任務部隊に配属、2月19日、硫黄島上陸作戦に参加した。 同年3月からは沖縄戦で艦砲射撃を行っている。 この際、右舷後甲板に日本の特攻機が命中し損害を受けている。 8月29日、ミズーリは他の艦艇と共に東京湾に入港、9月2日、艦上で無条件降伏文書の調印式典が行われ、日本側の重光葵全権、連合国側のマッカーサー元帥らが降伏文書に調印し、第二次世界大戦は終結した。 写真左側の白い天幕がかけられている場所が、重光全権や梅津参謀総長らが降伏文書に署名した場所である。 この艦は、日本の降伏後、朝鮮戦争に従軍したが、停戦後一時退役し、ワシントン州で約30年も係留されたままになっていた。 しかしレーガン政権になってから再び現役に復帰し最新の電子機器やトマホーク巡航ミサイルを搭載する等近代化され、湾岸戦争でも艦砲射撃やミサイルによる攻撃を実施した。 建造されたニューヨークやその他の州で取り合いがあったが結局海軍はハワイの「USSミズーリ保存協会」に寄付することを決定。ミズーリは、真珠湾のフォード島で「ミズーリ歴史博物館」として一般公開されることになった。 本土からハワイまでは予算が少なかったためタグボートで曳航したという。 公開は、1999年1月19日から行われている。 写真右側に写っている塔は、真珠湾攻撃当時からあった飛行場の管制塔である。 |
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特攻機が命中した痕 写真中央の舷側のへこみは、日本の特攻機が命中した痕である。この写真は後方から艦首方向を向いて撮影したものである。 昭和20年、沖縄攻略のため艦砲射撃に従事していたミズーリに対して、日本軍は特攻機を多数出撃させたが、そのうちの若い飛行兵が搭乗した1機が右舷後方(写真手前方向)から接近(この時すでに雨のような機銃掃射でパイロットは戦死していたが)、写真中央の凹んだ場所に命中して機体は大破、後ろ半分はパイロットの下半身と共に海中に落下、前半分が甲板上に乗り上げて炎上した。 水兵達はパイロットの上半身だけとなった遺体を引きずり出すとそのまま海に投棄しようとしたが、これを見た艦長がそれを制止し、「戦死した以上は敵も味方もない。彼は祖国のために命を懸けて戦った勇士である。丁重に弔うべきだ。」と言って、翌日米海軍の礼式にのっとって水葬にしたという。 |
特攻機が命中する瞬間の写真 艦首方向から後方に向かって米軍が撮影した写真。 既に左翼が接触している。 前述のとおり、この後機体が舷側に衝突し、前半分が甲板に乗り上げて炎上することになる。 |