(JR二葉の里アパート、住宅、道路等)

明治19年(1896年)、第五師団隷下に騎兵第五大隊が編成され、二葉の里に設置された。日清戦争の頃までは大隊といっても2コ中隊編成であり、戦闘よりも捜索(偵察)のための部隊だったといえる。日露戦争前、これに備えて師団騎兵は3コ中隊編成の聯隊となったが、大正11年の軍縮でまた2コ中隊編成となった。

支那事変勃発後、昭和13年7月頃までに16コ師団が新設されたが、このうち7コ師団(15、17、21、22、23、26、27)には騎兵大隊(規模は従来の聯隊と同じ。軍旗が授与されなかったので大隊と称したという。)の代わりに捜索隊が編成された。師団捜索隊は乗馬中隊と装甲車中隊の2コ中隊編成で、これは対ソ戦を念頭に置いて作られたものであったが、戦闘力の弱体や馬と車輌の機動力の違いによる運用の困難さなどから騎兵の間では評判が悪かったという。このうち、第二十三師団捜索隊はノモンハン事件で2回も全滅する悲劇に見舞われた。他の支那軍相手の師団では装甲車を保有できたことで喜ばれる面もあったが、人員減少にはとまどいもあったらしい。

昭和14年以降の新設師団では、師団捜索隊の問題点を改善するため捜索聯隊を保有するようになった(ただし、全師団ではなく、24コ師団が対象であった。その他は騎兵聯隊やどちらもない編制。)。また、師団新設と併行して支那事変以前からあった在来師団の3単位制(歩兵聯隊数を4コから3コへ減少)への改編が昭和15年から16年にかけて実施され、この際に第五師団を含む14コの師団は騎兵聯隊を捜索聯隊に改編した。捜索聯隊の編制は師団により異なるが、大抵は2コ装甲車中隊と2コ乗車中隊から成っていた。騎兵第五聯隊改め捜索第五聯隊は、大東亜戦争では緒戦のマレー作戦でめざましい活躍をした。この時、同聯隊では自転車を多数調達して自転車隊(銀輪部隊)を臨時に編成して機動力を発揮した。その後同聯隊は内地に戻ることなく終戦を迎えることになる。

昭和20年4月7日、大本営は本土決戦に備えて、航空総軍のほか、本土を鈴鹿山系で東西に二分して第一総軍(東京市ヶ谷台。司令官杉山元帥)・第二総軍(広島。司令官畑元帥)を設置した。第二総軍司令部は、旧騎兵(捜索)第五聯隊兵営跡に設置され、鈴鹿以西の陸軍部隊を統括するようになった。なお、この際、行政機構としては、本土決戦で分断された場合に独自の判断で対応できる中国総監府が千田町の広島文理大学内に置かれた。

8月6日の原爆被爆時、第二総軍司令部の四百数十名の将兵のうち百余名の将兵が即死状態で死亡し、辺りには将兵の遺体が多数散乱していたという。

記念碑について

以前場所が確認できなかった聯隊跡記念碑等について現地で場所を確認したのでここに掲載する。

場所は、広島市東区二葉の里3丁目3番地(JR社宅敷地内)で、広島駅新幹線口から弥生会館の西側の道路を北(山の方向)に進み、突き当たりを左側曲がり数十メートル西に進んだ左側の生け垣の中にある。 アパート30号棟の北側の道路沿いの位置である。 周囲は生け垣で囲まれており、確かにわざと見えないようにしているかのような印象を受ける。

ここにある記念碑は次の4基がある。

1 陣歿軍人軍馬追悼之碑  陸軍中將 鈴木莊六書

  綺麗な石碑だが古いもので、裏側には、「騎兵第五聯隊創立以来各戰役ニ於ケル戰病没軍馬ヲ追悼スルノ餘リ西伯利亞出征凱旋ノ秋建之」、「大正九年十一月十八日 騎兵第五聯隊将卒一同」とある。

2 忠節  師団長 長谷川美代次謹書

3 「騎兵第五聯隊跡」碑

4 「愛馬よ眠れ」碑

記念碑区域全景

写真右側は道路、左側はJRアパート30号棟である。

写真右側の生け垣は道路の歩道沿いに延々と続いているが、途中切れ目があるので、そこからアパート敷地に入ると記念碑がある。

記念碑区域正面

門扉は鍵で施錠されているので中には入れない。

正面の記念碑

これが「陣歿軍人軍馬追悼之碑」である。

向かって右側の記念碑

「騎兵第五聯隊跡」碑と「愛馬よ眠れ」碑

向かって左側の記念碑

「忠節」碑

(平成15年8月11日、11月13日更新)