(広島護国神社)
旧広島城大手門
広島城旧本丸にあった陸軍諸施設の表玄関として使われていた。日清戦争当時に明治天皇が広島に御滞在されていた際には、大きな「大本営」の看板がかけられていた(この看板は半分だけ現存する。)。
昭和20年8月6日の米軍による原爆投下により大手門を含み広島城は灰燼に帰した。しかし、戦後、天守閣が復興され、その後も平成に入って大手門や櫓などが復興された。
被爆樹木
二の丸北側にある被爆樹木。
司令部庁舎跡 (現、廣島護國神社)
現在神社の境内となっているところに司令部庁舎があった。
中国軍管区司令部は、昭和20年1月に留守第五師団司令部を改編して編成された司令部で、福岡の西部軍隷下に置かれた。同年4月には旧騎兵第五聯隊兵営内に第二総軍司令部が設置され、この隷下に入った。庁舎は旧第五師団司令部庁舎を使用していた。
昭和20年8月6日の原爆被爆により建物は消滅(爆心から約700m)、現在その跡地は広島護国神社などになっている。
中國軍管区司令部通信所跡の一部
上の写真左側、堀沿いに残る通信所の残骸。
通信所入口付近
通信所入口
この入口付近にあった情報室には、学徒動員された比治山高等女学校3年の女子生徒90名が3交代制で勤務についていた。8月6日の原爆被爆直後、電気が消えて真っ暗な中を呼び合って外に出ると周囲は全て吹き飛ばされて惨憺たる状況であった。彼女たちは、通信壕に戻ってまだ通信可能な福岡と福山の部隊に対して無線で連絡をした。広島壊滅の第1報は、こうして15才の女子生徒によって成されたのである。
入口付近の施設の一部と慰霊碑
コンクリート製の建築物で、換気塔などが残っている。上の写真右端に移っている慰霊碑は、被爆時に大本営跡前で朝礼後の竹槍訓練をしていて死亡した教員2名と女学生64名を慰霊するものである。
堀の外から見た司令部跡付近
石垣の一部が黒ずんでいるのは、原爆で石の表面が焼けただれたため。
(平成15年8月6日更新)