(現状: 空き地、道路、歩道)

大正末頃の地図。黄色線で囲んだ部分が海軍施設、赤線は主要な貨物線を示す(支線は他にもいくつかあった)。

終戦時には各施設の敷地は拡大されていたりするので若干異なる部分もあるが、おおむねこのような配置となっていた。

地図中の丸数字は写真番号を示す。

22 霞ヶ浦海軍航空隊前付近

写真左の林が霞ヶ浦海軍航空隊跡(現在は茨城県立大学農学部)で、正面の歩道辺りが線路の跡地である。

23 阿見町戦歿者合同慰霊碑

大学敷地を過ぎた辺りの線路跡とは道路を隔てた反対側にある。

旧阿見町の戦没者の慰霊塔で、昭和26年11月に建立された。195名と追加の2名を合祀している。

23 忠魂碑

阿見町の慰霊碑の向かって左下に建てられている。揮毫は、「越境将軍」として有名になった林銑十郎陸軍大将。

昭和9年4月15日に海軍下士官兵集会所(現在の「かすみ公民館」の場所にあった。)付近に建立されたが、戦後現在地に移転したという。 12名を合祀している。

23 誠忠凛々貫天日碑

裏側が見えないので詳しいことはわからないが、「誠忠凛々貫天日」とある。

戦前のものであることは間違いないが、この碑については『阿見と予科練』にもなぜか記述がない。

24 学校区バス停付近の線路跡

線路跡は写真右側の歩道付近。

線路跡なので幅が広い。貨物線跡はここから右に曲がって南下する。

24 カーブを曲がったところ

南を見通したところ。道路の右側が線路の跡。

真っ直ぐ進むと支線となり、現在の阿見町役場敷地に入る。

本線跡は、写真中央左の樹木の手前の脇道であり、途中、現在の阿見小学校敷地の一部を通過して再びこの道路の先に出てくる。

25 霞ヶ浦飛行場引込線の跡

この辺りで引込線は分岐しており、引込線跡(写真右の道)は、阿見町役場の駐車場内の通路となっている。

26 阿見町役場前の現状

本線跡は、歩道橋を過ぎた辺りで阿見小学校(写真左)の敷地を出て道路に出てくる。

27 阿見中学校前の現状

この辺りは線路の跡がほぼそのまま歩道となっているため歩道が広くなっている。

28 県立医療大入口バス停前の現状

ここから貨物線跡は左にカーブする。

29 中央南1交差点の手前付近

貨物線はこの辺りから左にカーブするのだが、現在貨物線跡には民家が建っている。

29 第一軍需工廠跡を望む

この道路は、飛行場地区と第一軍需工廠(前中島飛行機若栗工場)とを結ぶ、通称「滑走路」(実際は航空機の誘導路)の跡地の一部であり、貨物船の軌道はこの道路の向かって右側の民家が建ち並んでいるところである。

30 三菱化学バス停前

道路の突き当たりが第一軍需工廠の跡(現在は、二村化学、油化三昌、三菱化学など)で、線路が引き込まれていた。

(平成13年12月初掲、平成23年4月23日修正)