(現、陸自航空学校霞ヶ浦校、茨城大学農学部、東京医科大学霞ヶ浦病院、キリン協和フーズ、井関農機、農地、住宅地他)

海軍航空殉職者慰霊塔

(阿見町立中郷保育園前)

 海軍航空殉職者を奉祀した霞ヶ浦神社(細部は後述)が終戦後破却されたため、昭和30年12月、旧海軍関係者らの努力により、地元民家に分散秘匿されていた5,573柱に及ぶ「霊名録」を収納安置するための慰霊塔が建立された。 敷地内には、霞ヶ浦神社社標や山本元帥の歌碑も移設されている。 設立者側は、当初は旧霞ヶ浦神社跡(現在は茨城大学敷地になっているが、昭和30年当時はただの国有地で荒地となっていた。)への慰霊塔建立を計画したが、隣接する茨城大学の左翼学生が、「慰霊塔の設置は再軍備に繋がるもの」という無茶苦茶な論理で強硬に反対し、学長達の懸命の説得にもかかわらず話が難航し、結局阿見町の協力もあって、保育園に隣接した民有地(昔は航空隊の敷地で、旧プールの県道をはさんだ向かい側に位置)を買収、その地に建立したという。

霞ヶ浦神社社標

 慰霊塔建立時に現在地に移設された。裏側には、「建設者 金工分隊員一同」とある。 

 大正14年10月、当時の霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭であった山本五十六海軍大佐が、「海軍航空創設以来二十余名の殉職者を出し、毎年招魂の祭壇を設けて英霊を迎える所以のものは、尊い犠牲者に対する当然の儀礼であるのみならず、亡き戦友の英志を永遠に偲び、倍々吾人の雄心を奮起して、我が航空界の躍進を図り以て先輩僚友の神霊に応ふるに在ると思う。 この趣旨を更に徹底せしめんが為、隊内に神社を創設して諸霊を合祀し、日夜神殿に拝詣して常に志心を清新に維持することを得ば、以て故友の霊を慰むるに足るものありと信ずる。 過日露國海軍武官等が来隊の際、先づこれら名誉ある戦友の墳墓に詣でんことを申し出でたが、未だ何等の設備なきを聞いて不審の面持であった。 よって、この際、霞ヶ浦神社を建立しては如何。」という案を隊員に示したところ、即座に総員一致の賛同を得たので、航空隊司令安東昌喬海軍少将(後に海軍中将)にこれを具申した。 安東少将はこれに同意し、直ちに霞ヶ浦神社建設調査委員会を発足させ、山本大佐を委員長として所要の委員を任命、建設準備に着手せしめた。 そして、委員会は年内に2回の会議を行い、その結果次の7項目について議決するに至った。 すなわち、@ 社名を「霞ヶ浦神社」と命名する。 A 祭神は当隊殉職者のみならず我が海軍における総ての航空殉職者とする。 B 第1次計画として、社殿・玉垣・鳥居のみを建設し、その経費を1,850円とする。右経費は隊員総員の俸給の100分の3、及び搭乗員総員の航空加俸の100分の6を醵出して充当する。第2次計画たる拝殿・記念館その他の建設は、寄付その他により漸次着手することとす。 C 敷地は本部庁舎隣接地の600坪を選定する。 D 春秋二季靖國神社大祭日に例祭を施行する。 E 建設に要する労力は已むを得ざる場合のほか隊員の奉仕による。 F 社殿・鳥居の形式(細部省略)である。 大正14年11月、山本大佐が米国大使館附武官に転出したので、委員長は後任の佐藤三郎海軍大佐(後に海軍中将)に引き継がれ、12月初旬神域区画を決定して土木工事を開始、15年1月初旬埋め立て及び整地工事を完了、1月末には地鎮祭を施行して4月上旬社殿の完成を見た。 下って昭和15年秋、皇紀2600年記念事業の一環として、隊員の醵金により従来の檜材鳥居を石材に取り替え、また、玉垣及び記念館(正式名は「航空参考館」)も造営された。 しかし、拝殿だけは遂に造営されなかった。 霞ヶ浦神社は、海軍航空創始以来の総ての航空殉職者を祭神として奉祀し、霞ヶ浦海軍航空隊における最高指揮官が「霞ヶ浦神社奉賛会総裁」として毎教育年度末を期して霊名録に当該年度の殉職者の官氏名を謹記した。 その結果、終戦時には、霊名録は巻物16巻となり、奉仕された殉職者数は5,573柱に及んだ。 昭和20年、終戦に伴い進駐した占領軍により、霞ヶ浦神社社殿の廃棄と祭神の焼却が指示されたが、航空隊及び阿見町の関係者の計らいで社殿は近くの阿彌神社境内に台座もないまま移され、祭神たる霊名録16巻は数軒の民家に分散秘匿された。 社殿はその後放置されたままであったため破損が著しいものとなったが、霊名録は講和条約発効まで無事に守り抜かれ、その後逐次陸上自衛隊武器補給処に蒐集保管された。 旧海軍航空関係者は、戦後の霞ヶ浦神社の惨憺たる状況を憂い、協議を重ねた結果、神社再建は将来の維持管理に問題が生じるとして慰霊塔の建立を決定し、紆余曲折の後、同年12月17日に除幕式及び慰霊祭を行った。 その後、将来の慰霊継続を確たるものとするため、慰霊塔は昭和46年4月に阿見町に寄付・移管され、慰霊塔基部に納められていた霊名録は昭和47年5月に建立された東郷神社境内の海の宮に合祀された。

山本五十六元帥の歌碑

 慰霊塔建立に際して、霞ヶ浦神社跡から移設したもの。 概観した限りでは特に破損等は見あたらない。

貯水池跡

(阿見町立中郷保育園前)

 内側は埋め立てられているが、直径10メートルくらいの円形のコンクリート製縁石が残っている。 現在は茨城大学駐車場敷地の端にある。 

貯水池跡をフェンスの内側から見たところ
近くで見たところ

(平成13年5月6日初掲載、平成21年9月12日改訂)