北砲台(烏山砲台)の沿革 霞ヶ浦海軍航空隊の飛行場や第一海軍航空廠の防空のため、その周辺に、「北砲台(烏山砲台)」、「南砲台(実穀砲台)」及び数カ所の機銃陣地が構築されていた。 「北砲台」は、別名「烏山砲台」ともいい、現在の土浦第六中学校敷地を含む舌状台地上にあり、推定される敷地の広さは、南北約500メートル、東西約150〜200メートルほどである。 南側は、第一海軍航空廠の烏山地区資材分散地に接していた。 『阿見と予科練』によれば、この砲台の開設時期は昭和18年頃だったといい、配備されていた器材としては、四〇口径八九式十二糎七高角砲(通称:12.7サンチ高角砲)4基、高射装置1基、四・五米測距儀1基、九六式百五十糎陸上用探照灯(『阿見と予科練』には「十五糎探照灯」と記されているがこれは明らかな誤りである。)2基等だったという。 北砲台は、南砲台、土浦海軍航空隊そばの青宿高地砲台よりも開設時期が新しく、配備火器の性能も一番良かった。 『阿見と予科練』278頁の解説文には、「現在、跡地は農耕地や校庭に変わっているが、砲台跡であったことを示す探照灯の基礎部分のみが林の中に残されている。」とあり、また、同279頁には「探照灯台座、退避壕等の遺構」とあるが、実際に現地で確認できたのは、以下に写真で示すとおり、コンクリート製の探照灯台座1基、不明台座1基、退避壕跡2カ所である。 ↑ 四〇口径八九式十二糎七高角砲 【参考資料】 『阿見と予科練』 278、279ページ 『Wikipedia』 ”四〇口径八九式十二糎七高角砲” |
第一海軍航空廠烏山地区資材分散地跡 から見た北砲台跡 写真中央の陸橋(長峰橋)の向こう側が北砲台跡で、その手前全域が第一海軍航空廠烏山(からすやま)地区資材分散地跡である。 この写真は、長峰橋西側約40mの地点にある三叉路から撮影したもの。 写真左下の現在道路となっている辺りには、第一海軍航空廠の木造の仮雑品庫があった。 また、この三叉路を右に曲がると無蓋掩体壕地区跡に至る。 橋の下の道路は、数年前に開通した阿見美浦バイパス。 |
北砲台南端付近の現状 長峰橋を渡った付近の景況。 北砲台の中央を縦断する道路は1〜1.5車線道で、北端にある土浦第六中学校まで続く。 探照灯台座や退避壕等の遺跡は、この道路を先に進んだ左側に集中している。 |
探照灯台座の南面・東面 旧海軍が北砲台に設置した150cm探照灯のコンクリート製基部で、北砲台跡最大の遺構である。 かつてこの台座の上に設置されていた「九六式百五十糎陸上用探照灯」は、戦艦大和にも搭載されていたもの(艦船用)と同型であり、海軍最大の探照灯であった。 所在地は、ページトップの地図上の■のあたり。 |
道路から見たコンクリート製台座 名著『阿見と予科練』にも記述がない遺構である。 北砲台に残るコンクリート製構造物は、先程の探照灯台座1基とこの不詳砲台座1基だけである。 位置は、地図上の▲のあたりである。 |
台座を上から見たところ コンクリート製のこの台座の上面には、四角形の窪みが6つあり、この穴を使って砲の金属製基部を固定していたものと思われる。 台座の直径は約1メートルである。 大きさから見て、大型機材の台座ではないので、機銃か高射装置、あるいは測距儀関連のものではないかと思われる。 |
台座の近くにある退避壕跡 退避壕は、空襲時に兵員が一時避難するためのものだが、北砲台の退避壕は防空壕のような地下構造ではなく、直径数メートルで、10〜20名程度の兵員が入れる程度の単なる露天掩体だったようである。 現在は伐採した樹木の捨て場所となっており、詳しい構造などはわからない。 位置は、地図上の下の方の●のあたりである。 |
中学校敷地南側台上にある退避壕跡 雑木林を北に抜けると第六中学校を眼下に見下ろす右折路に突き当たるが、その手前にある土塁(写真上方)の10メートルほど南に、別の退避壕跡がある(写真中央付近)。 こちらの退避壕は、壕を掘った土を周囲に盛って作った堆土(たいど)や、出入口の切り欠き部が残っているが、肝心の壕自体は廃材捨て場になっていて内部の詳しい構造は不明である。 (左の写真をクリックすると退避壕全体の写真を見ることができます。) |
土浦第六中学校 『阿見と予科練』によれば、この中学校の敷地の大部分が北砲台の北部敷地だったというが、学校を建設する際に斜面を削り取って平地にしており、今となっては直接検証することもできず、何とも言えない。 |
(H23.06.26掲載、同年06.29更新)