海軍航空要員研究所の沿革 上の写真は、昭和22年に米軍が撮影した海軍航空要員研究所跡(左上、建物が二棟ある四角形の敷地)と土浦海軍航空隊跡(右)の航空写真である。 海軍航空要員研究所の前身は、昭和15年11月に設置された「土浦海軍航空隊適性部」であり、予科練生の採用試験や採用後に操縦要員と偵察要員に区分するための各種検査とこれに必要な研究を実施した。 当初は土浦海軍航空隊本部庁舎隣の第一兵舎に設置されたが、その後今の霞ヶ浦高校の辺りの兵舎に移転した。 昭和18年頃、法泉寺の東側、土浦市大岩田の高台に「ヨ」の字型の建物2棟等の建設が開始され、昭和20年4月に適性部の大半がここに移転した。 そして、阿見空襲後の昭和20年7月20日、海軍航空要員研究所として独立し、一ヶ月を経ずして終戦となった。 敷地は約72,000平方メートル、建物八棟(第一研究所、第二研究所、守衛詰所、札場、物置、ポンプ所3棟)の床面積は約5,700平方メートルだったという。 戦後、昭和22年2月に茨城師範学校本部と男子部が旧海軍気象学校跡の校舎からこの地に移転し、同23年10月には女子部もここに移転した。 同校は、昭和24年5月に茨城大学に包括されて「茨城大学教育学部分校併設茨城師範学校」に改称された。 そして、昭和26年3月に最後の卒業生を送り出すと共に廃校となった。 同年4月、土浦市立高等学校がこの地に移転、翌27年4月に現在の茨城県立土浦第三高等学校となった。 (参考資料:『阿見と予科練』P259〜261) |
第一研究所跡 敷地南西から撮影。 かつては写真の校舎の直前辺りに木造二階建ての第一研究所庁舎があり、その後方に第二研究所庁舎があった。 建物は、長さ約93m、奥行き約22mで、第一研究所と第二研究所は二階建ての渡り廊下で繋がっていた。 第一研究所の建物は、昭和42年頃に解体された。 |
法泉寺 海軍関係慰霊碑 |
法泉寺 海軍航空要員研究所跡の西側に隣接する、真言宗豊山派聖天山法泉寺。 法泉寺の開創時期は正平年間(1346〜69)という古刹であり、開山は醍醐寺三宝院乗海という。 本寺の山門は江戸初期の建築であり、「日暮門」とも呼ばれる。 寺仏の薬師如来坐像と日光・月光菩薩は茨城県指定文化財。 所在地は、茨城県土浦市大岩田1616 |
元土浦海軍航空隊戦没者之碑 この碑は、昭和26年6月10日に建立された土浦海軍航空隊関係者の戦没者慰霊碑である。 碑文には、「昭和二十年六月十日土浦海軍航空隊職員及び飛行予科練習生二八一名が被爆壮なる戦死を遂げこの処にて荼毘に附す英霊供養のすがにせん。七回忌慰霊祭執行を記念し遺族一同之を建つ。遺族代表軽部久喜書(原文) 昭和二六年六月十日建立」とある。 |
(H23.05.29 uploaded)