(沖縄県糸満市字伊原671−1)

沖縄陸軍病院(現在その所在地名をとって「南風原(はえばる)陸軍病院」と呼ばれているがこれは戦後の俗称であって正しくない。)は通称号を「球18803」といい、沖縄防衛に任ずる陸軍の第三十二軍直轄の病院であった。 同病院は、沖縄戦の約1年前に当たる昭和19月、九州の熊本陸軍病院で編成された。

同年日、病院長として広池文吉陸軍軍医中佐が着任し、関南中学校で編成をとり、中城要塞病院(病院長:陸軍軍医大尉目源逸)を吸収合併した。 加えて現地で将校・下士官・兵を召集、また看護婦・筆生・雑事婦を雇い、診療態勢を完整した。 更に、7月3日には、仲本陸軍軍医中尉以下約200名の将兵が到着し、都合約300名以上の陣容となった。

同病院は、本部・内科・伝染病科を関南中学校に、外科を泉崎にあった済生會病院に、兵舎を沖縄県立第一中学校に置いた。

当時の沖縄陸軍病院の編成は下記の通りである。

  病院長 陸軍軍医中佐 広池 文吉

  庶務科 科長 陸軍軍医少佐 佐藤悌二郎

  経理科 料長 陸軍主計中尉 佐藤千年男

  教育科 科長 陸軍軍医中尉 仲本 将英

  衛生材料科 科長 陸軍薬剤中尉 柳沢  猛

  診療科 科長 陸軍軍医大尉 佐々木僑一

    外科診療主任 陸軍軍医中尉 比嘉 堅昌

    内科診療主任 陸軍軍医大尉 目 源逸

    伝染病科主任 陸軍軍医中尉 嘉手川重達

この頃は痔や盲腸など内科患者が多く、外傷患者はほとんどいなかったという。この時の入院患者数は約500名だった。

沖縄陸軍病院は、米軍による「十・十空襲」で病棟と兵舎を焼かれてしまい、衛生器材の約45%と薬品の約39%を失ってしまった。 この日の夜、病院は南風原国民学校(現、南風原小学校)へと移転した。 南風原では、南風原国民学校の全敷地と校舎を病院として使用した。 これ以後学校での授業は一切できなくなり、学校関係者の立ち入りも禁止されるようになった。 軍医は兼城や宮平の民家(瓦家)に、看護婦は公民館(その前は民家に)、衛生兵らは学校に宿泊した。

一方、病院の近くにある給料である「黄金森」には、米軍の沖縄上陸に備えて横穴式の地下壕構築が進められた。 築城隊の軍人が指導し、測量に工業学校の生徒が動員され、壕掘りには知念・玉城・具志頭の出身者が徴用されていた。 夏休みに入ると南風原国民学校高等科生徒も動員され、トロッコで土運びをした。 壕掘りは全て人力で、ツルハシやクワ等を使っていたという。 黄金森のふもとには、国頭から運ばれた松が積まれており、これを大工が坑木の規格の大きさに切断していた。

元の教室は病室として使われており、ベットはなく、患者はムシロの上に寝かされていた。 ここでも内科患者が多かったが、「十・十空襲」や陣地構築によって負傷した兵隊も少なくなかった。 ここで治癒する見込みのない患者や長期入院・療養を必要とする患者は本土に後送した。 死亡した患者は「忠魂碑」の後の方で荼毘に付された。 炊事場はマチカー(体育館の様に現在でもあるという。)にあり、炊事婦として兼城・宮平の女性を雇っていた。 昭和20年3月23日の空襲で、屋根を偽装していた学校は焼け、患者は三角兵舎に運ばれた。

黄金森の麓の東側と西側にはそれぞれ4〜5棟の三角兵舎が建てられていた。 三角兵舎の中には、「十・十空襲」で焼け残った沖縄県立第一高等女学校・沖縄県女子師範学校の校舎を壊して、その資材を輜重兵が運搬して建てたのもあったという。

昭和20年33日深夜、これまで南風原国民学校で速成の看護教育を受けていた沖縄県立第一高等女学校・沖縄県女子師範学校の寮生全員と自宅通学生の222名が「姫百合(ひめゆり)学徒隊」として動員され、教師ら職員18名も第三十二軍司令部から「陸軍臨時嘱託として沖縄陸軍病院勤務を命ず。」と発令があり、これにより総勢240余名が沖縄陸軍病院に配置された。

南風原の病院に着いた姫百合学徒隊は、三角兵舎で寝起きし、本部指揮班・炊事班・看護班・作業班に編成されたが、当初は壕掘りと衛生材料の運搬に従事していた。 同年329日、三角兵舎で卒業式を終えた姫百合学徒隊の女生徒達は、か所の壕に分散し、25日、本部・第一外科・第二外科・第三外科・糸数・一日橋に先生と一緒に配置された。

昭和20年4月1日、米軍は約47万人の兵力で沖縄本島の中部(読谷、嘉手納、北谷)海岸線に上陸。 米軍が本島に上陸したその日から、負傷兵が続々と後送されてきた。 これを受けて陸軍病院の体制も外科中心に編成替えされる。 すなわち外科は第一外科に、内科は第二外科に、伝染病科は第三外科に。 それぞれに軍医・看護婦・衛生兵・姫百合学徒隊を配置し、当時の病院関係者の総数は342名(学徒隊と教師を除く)であった。 

南風原での患者数は、壕の数や規模から想定して2000余名、延べにして1万名に達したと言われている。 壕は手掘りの横穴壕で、クチャ土でもろいため坑木がはめられ、通路と二段ベッドがあった。 ベッドには重傷患者が寝かされ、壕内は血・膿み・ウジの臭いと、患者の唸り・叫び声が充満した阿鼻叫喚の世界であったという。 通路では学徒隊が衛生兵などと共に不眠不休でお握りの配給・糞尿の始末・治療・看護・死体処理などに従事していた。

日本軍は宜野湾、浦添方面に防御陣地を構えたが米軍の圧倒的戦力の前に耐えられず、22日には米軍が西から那覇に東から与那原に進攻を開始、この日、第三十二軍は全軍を喜屋武半島に後退させ、持久戦続行の作戦方針を決定した。この時の残存兵力約四万人とも五万人ともいう。 

5月23日から負傷者と弾薬の後送が始まり、25日、沖縄陸軍病院は南部へ移動を開始し伊原地区の自然壕に展開した。 南部に後退するに際して、多くの重傷患者が「青酸入りミルク」といっしょに置き去りにされたという。 27日には首里城地下の第三十二軍司令部も津嘉山へ撤退へ移動した(30日には摩文仁に移動)。 なお、この間、5月24日には熊本県健軍を飛び立った「義烈空挺隊」が北・中飛行場に強行着陸して特攻・玉砕し、米軍が那覇市を占領している。

その後、日本軍はじりじりと押されて後退し、6月6日には、米軍が小禄那覇飛行場を占領、具志頭方面では戦闘が開始され、また海軍陸戦隊が玉砕して司令官大田海軍少将が司令部壕内で大本営に沖縄県民の健闘を伝える電報を打電した後自決した。

6月17日、六十二師団が摩文仁北方で激戦を繰り広げたが、これが最後の組織的戦闘となった。 同日、米軍が国吉〜与座岳〜真栄平〜仲座の陣地線を突破した。

6月18日、牛島第三十二軍司令官は、上級部隊である第十方面軍司令官へ訣別電報を打った。 この日米軍のバッグナー軍司令官が戦死したことは知らなかった。 また、同日、司令部から姫百合学徒隊に解散命令が出た。 しかし、現実問題として、任務を解除され隊が解散されたと言っても、既に周囲は米軍が展開しており日本軍は壊滅している状態であったため誰が収容してくれるでもなく、文字通りどうしようもない状況であった。

翌19日、脱出のため、姫百合学徒隊の生き残りは第三外科壕に集合したが、米軍によってガス弾が打ち込まれ多数の死傷者を出した。 もう壕の上まで米軍は進出してきていたのである。 ここで生き残った者も、さらに荒崎海岸に追い込まれ多数が砲撃などで死亡したり自決したりした。 姫百合学徒隊の死者219名(職員含む。)のうち、18日の「解散」後の死者が約130名を占めており、この点も軍司令部の処置が今でも厳しく批判される一要因となっている。

22日(23日ともいう。)、軍司令官牛島満陸軍中将、軍参謀長の長勇陸軍中将が壕内で自決。 この数日前に出された最後の命令は、「軍司令官の指揮困難と成れり。爾後各部隊は各局地に於ける生存せる上級者これを指揮し最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし。」であった。

有名な「ひめゆりの塔」は、この第三外科壕の上に建てられている。 また、第1外科壕跡は国道を挟んだ反対側、ひめゆり平和祈念資料館から100mほど南にある。 ひめゆり学徒隊解散前日の6月17日に米軍機の直撃弾が命中し、多数の看護婦や学徒が即死したという。

「ひめゆりの搭」と納骨堂

「ひめゆりの塔」といえば写真中央のものだと勘違いする人もいるが、これは納骨堂であり、塔は右下にある小さな石碑のことである。

この後方にある「ひめゆり平和記念資料館」は、1989年に建てられた資料館で、5つの展示室からなり、遺影や遺品、資料等が展示されている。

(参考)

ひめゆり平和祈念資料館 

沖縄県糸満市字伊原671-1 電話:098-997-2100

ひめゆりの搭

ひめゆり平和祈念資料館の資料によれば、この「ひめゆり」の由来は、次のような事情によるという。

沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校にはそれぞれの校友会誌があり、師範は「白百合」、一高女は「乙姫」と名付けられていたところ、両校が併置されることによって校友会誌も一つになり、両方の名前の一部をとって、「姫百合を使うようになったものである。 植物の花の「ひめゆり」とは関係ない。 なお、ひらがなで「ひめゆり」と表記するようになったのは戦後のことで、当時は「姫百合」であった。

旧第三外科壕

現在も地上に大きな口を開けている。 基本的には深い縦穴のような構造なので、当時は梯子で昇降していたという。 外科壕内部の様子は上記資料館内にほぼ実物大で再現されている。

陸軍病院第三外科職員之碑

戦後関係者によって建立された慰霊碑

沖縄戦殉職医療人之碑

書体も石材も古く、かなり昔に建てられたものらしい。

赤心の塔

説明板も何もないが、病院関係者や姫百合学徒隊生徒達の献身的な働きや心に対する顕彰を目的に建てられたものと思われる。

第三外科壕近くにあるガマ

大きく開口していて防護性がなく、底も浅いので戦時中は利用していなかったと思われる。

(平成15年10月18日)