大阪城天守閣の南東にあり、構造は鉄筋コンクリート、地上3階、地下1階、延床面積7,006平方メートルで、第四師団経理部の設計になる。ドイツの古城を模してデザインされたと言われる。 豊臣秀吉の大阪城天守閣は夏の陣で焼失、徳川時代の天守閣も寛文5年(1665年)に落雷で焼け落ち、その後天守閣が再建されることはなかった。しかし、昭和3年(1928年)の御大典記念事業として天守閣の復興案が市会で議決され、多くの大阪市民の支持を得て建設資金の募金運動が始まった。市民の寄付金は約150万円にものぼり、この一部を使って天守閣を復興(設計は大阪市土木局建築課、施工は大林組)し、80万円を使って第四師団司令部庁舎やその他の陸軍施設を建設した。これは、天守台のある旧本丸が陸軍用地であり、ここへの天守の復興と市民の立ち入りを認める代りに、募金の半分以上を使って軍の施設を建設したものである。竣工は昭和6年(1931年)で完成と同時に陸軍に献納され、その後第四師団司令部庁舎として使用された。
昭和15年(1940年)、新たに中部軍管区司令部がここに設置されると、第四師団司令部は現在の豊国神社付近の建物に移った。
戦後は、米軍の施設にあてられて大阪城内への日本人の立ち入りが禁止された。接収解除後、大阪市に移管されて大阪市警察本部の庁舎として使用された。その後、大阪府警察本部を経て昭和35年から大阪市立博物館に転用された。
大阪市立博物館は、大阪歴史博物館(平成13年11月開館。大阪市中央区大手前4−1−32)に移転・改編のため、平成13年3月31日に閉鎖され、現在この建物は閉鎖されたままとなっている。
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