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表門跡
門自体は失われているが、煉瓦塀や敷石などが残されている。
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旧通用門
表門跡の左側、歩道橋の下にある。現在は大手前病院の臨時駐車場入口となっている。
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明治天皇聖躅(せいちょく)碑
門跡左手の植え込みの中にある。大阪市青年聯合會が大正14年5月に建立した古い石碑である。
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旧化学分析場(化学試験場)
表門を入って左手に残る、非常に貴重な遺構である。昭和39年から数年前まで自衛隊大阪地方連絡部として使用されていたが今は使われていない。取り壊しの噂もあるが、是非とも保存してもらいたい建築物である。
この建物は大正8年建築で、左右対称のネオルネッサンス風の赤煉瓦二階建で、延べ面積は1,887平方メートルである。設計は有名な建築家である置塩(おしお)章氏。
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旧化学分析場(化学試験場)正面玄関
現在は閉鎖されており中へは入れない。私が平成元年に入ったときには、各部屋の内装などはさすがに新しくなっていたが、建物自体はさほど改変されておらず比較的よく原形をとどめていた。
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旧化学分析場(化学試験場)むかって右端の現状
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旧便所
門の脇にあるので守衛所だと考える人が多いのだが、この建物は便所である。今は閉鎖されているが、数年前に裏側から中を覗いたところ内部は便所であった。実際、大阪陸軍造兵廠の見取り図にも「便所」と記されている。
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旧便所の裏側
ご覧のように完全に閉鎖されてしまい中には入れない。
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石碑(?)の跡
旧便所の左側にある石組みで、何かを設置していた痕跡がある。石の積み方から見て何かの記念碑が置かれていたものと考えられる。
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砲兵工廠跡碑
大阪廠友会により昭和34年に建てられた記念碑で、元々は昭和20年8月14日の大阪大空襲でもっとも多くの犠牲者を出した第三旋工場跡に建てられていたが、昭和58年に大阪城公園が完成した後現在位置に移された。
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大阪陸軍造兵廠本館跡
本館は戦後も長く残っていたが、大阪城ホール建設のため、大阪市民や建築家らの強い反対を押し切って取り壊しが強行された。今は跡形もない。
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診療所跡
明治36年に開設された診療所の跡地で、敷地の南端に当たる。戦後は、改築された上で大阪市の東市民病院となっていたが、昭和41年以降は身体障害者福祉センターとして利用されていた。その後、数年前に「ピースおおさか」という資料館が新築された。
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