旧高射第一師団司令部

(国立科学博物館本館)

【平成13年8月27日掲載】

高射第一師団

 高射第一師団は、昭和19年12月22日に東部高射砲集団を改編して東京で編成、通称号「晴」、終戦時の上級部隊は第12方面軍。

 終戦時の所属聯隊は、高射砲第111聯隊(埼玉県安行村)、高射砲第112聯隊(世田谷)、高射砲第113聯隊(神奈川県川崎市)、高射砲第114聯隊(月島)、高射砲第115聯隊(市川須和田)、高射砲第116聯隊(板橋)、高射砲第117聯隊(横浜市中区)、高射砲第118聯隊(後楽園)、高射砲第119聯隊(千葉県市川市)、照空第1聯隊(八王子)。

 高射師団は、本土決戦準備の一環として昭和19年末から昭和20年にかけて、従来の高射砲集団等を改編して4コ師団が編成された。 高射第1師団はその改編第1号として編成されたものである。 師団の任務は、皇居や主として京浜地区の政戦略上の要点の対空掩護及び立川・太田・常陸・釜石等の生産施設の掩護にあった。

 B29のマリアナ基地からの発進は、昭和19年11月から開始され、昼間に高度1万メートルで東京を初空襲した。 B29は、伊豆半島から進入し富士山で東進したため、東正面重点指向を一部西正面に変換した。 また、8cm高射砲では射程距離が不足だったため、12cm高射砲に変更した。

 米軍は、当初精密高々度爆撃による航空機製造工場等の爆撃をしていたが、途中で方針を変更し、大都市無差別焼夷弾攻撃を低空で実施した。 昭和20年3月10日、東京の下町地区に対する所謂「東京大空襲」はその無差別爆撃の皮切りとなるものであった。 この時、高射第1師団は強靱な対空戦闘を実施したが、50機撃破の戦果にとどまった。

 その後、師団は新編高射砲部隊・照空部隊を編合され、これら部隊を重要工場や交通要点の掩護のため福生や日立港・新潟港等に派遣した。 6月には、新潟港の防空強化のため高射砲大隊等を増派するとともに、方面軍隷下の各軍や第11方面軍に高射部隊の一部を配属した。 また、主要鉄道掩護のため、関連施設や鉄橋等に機関砲中隊や高射砲中隊を配属した。 この頃になると、米軍の空襲目標は大都市から地方都市へと移っていたので、機動力を向上させるために一部を自動車化するとともに、宇都宮・前橋・高崎への高射砲聯隊派遣も行った。

 昭和20年5月、15cm高射砲が完成し、師団は2門を久我山(現在、東京都杉並区)陣地に配備、7月中旬には射撃設備を完整した。 この高射砲はB29に対して威力を発揮し、以降はこの上空を回避するようになった。

 高射第一師団司令部は当初代官山に置かれたが、昭和20年5月12日、上野公園内の科学博物館に移転した。 司令部の移転当時は博物館は休館状態であり、市民が博物館を見学するような状況でもなかった。 現在、博物館の外観はほとんど当時のままだが、内装は展示のために改変されている。 それでも、玄関を入ったホールの吹き抜けなどは当時のままである。