(現、東京ミッドタウン・赤坂中学校・檜町公園)

旧歩兵第一聯隊本部庁舎

この写真は平成13年6月の撮影であり、同年8月25日に現地に行ったときには既に取り壊されていた。 この庁舎は、昭和2年改築のもので、初代の庁舎は関東大震災で倒壊している。

歩一の敷地は毛利家の藩邸跡で、現在もその庭園の遺構である池等が檜町公園に残っている。

庁舎は旧防衛庁構内にあり、防衛庁の市ヶ谷移転前は防衛弘済会が建物を使用していた。 壁等は白く塗り直されているものの、概ね往時の原形をとどめていた。

なお。写真ではわかりにくいが、外柵の向こう側に門柱の上部がみえる。また、歩哨舎も旧位置にそのまま残っていた。門柱と歩哨舎は、現在市ヶ谷の防衛省構内に移設されている。

旧歩兵第一聯隊外塀

東京ミッドタウン建設工事までは、敷地を囲む塀はまだかなり残っており、上部と下部の赤っぽい彩色も、多少色あせているが当時のまま残っていた。

写真は、敷地東側の旧状である。

稲荷池

防衛庁跡の北東にある檜町公園内の池で、戦前は「稲荷池」と呼ばれていた。

「歩一の跡」碑

稲荷池の「中ノ島」に設置されている記念碑。 岡村寧次元陸軍大将の筆になるもので、昭和38年に建立された。

この「中ノ島」には、終戦まで桜川稲荷と厳島神社が鎮座していたが、戦後米軍により撤去されたという。

灯 籠

檜町公園西側台上にある灯籠で、将校集会所跡地付近にある。

おそらく、毛利家藩邸時代からの遺物と思われる。

高さは2メートル以上ある。

檜 坂

兵営跡地の北東端の坂道。

江戸時代、檜の木が多いことから「檜屋敷」と呼ばれた毛利家屋敷に沿った坂道でということからこう呼ばれるようになったという。

歩兵第一聯隊について

歩兵第一聯隊は、通称号:玉五九一四、編成地:東京、編成時期:明治7年12月19日軍旗拝受、終戦時の上級部隊:第一師団、終戦時の所在地:セブ島(フィリピン)、最終聯隊長:揚田虎己。

明治7年5月、東京鎮台の隷下に聯隊は創設され、日比谷操練場(現、日比谷公園一帯)において明治天皇から軍旗を拝受した。 西南の役では田原坂(たばるざか)の戦いや、城山の攻撃に参加した。

日露戦争では、奥保鞏大将率いる第二軍に属して金州及び南山を攻略した。 この際、軍旗の旗竿が折れ、聯隊長及び旗手も負傷した。 戦死者は百十余名で、その中には乃木希典大将の長男勝典中尉も含まれていた。 その後、聯隊は第三軍に編入され、旅順要塞攻略戦に参加、約二千四百名もの損害を出した。 第三次総攻撃の際は、二〇三高地攻撃にも参加し大きな損害を出している。 旅順要塞陥落後は奉天会戦に参加した。

その後しばらくの間、聯隊は内地にあって教育訓練に当たっていたが昭和11年の「2・26事件」の際に多数の関係者を出した聯隊は、かねてから満洲移駐を命じられていたこともあって5月に渡満した。 この時の聯隊長は後に沖縄で自決することになる牛島満大佐であった。

満洲移駐後の聯隊は、カンチャーズ事件、支那事変、ノモンハン事件に参加した。 カンチャーズ事件では、聯隊の速射砲がソ連館を撃沈する戦果を挙げている。 支那事変では、蘆溝橋事変勃発後、万里の長城を越えて張家口から大同へと進撃した。 ノモンハン事件では、速射砲中隊が派遣され24名の戦死者を出した。

大東亜戦争開戦後も聯隊は満洲においてソ連に対する防衛に任じていたが、戦争末期の昭和19年、南方転進を下令され、第二大隊を除く聯隊主力は11月1日にレイテ島オルモックに上陸した。 その後、聯隊は10月20日に既にレイテに上陸していた米軍と激戦を繰り広げ、聯隊正面の米軍約2個師団をくい止めた。 しかし、兵力の損耗は激しく、上陸時約2,500あった兵力が約350にまで低下していた。 その後、カンギボット山系に集結した聯隊は、第一師団の「地号作戦」という撤退作戦によって昭和20年1月にセブ島に渡ったが、レイテを脱出できたのは聯隊長以下72名だけで、レイテに残った将兵は消息を絶った。 セブ島での聯隊は現地での自活を続けながらゲリラ戦を実施したが8月に同地で終戦を迎えた。 この時の生存者は39名だったという。

上海で分派された第二大隊はマリアナ諸島のロタ島に派遣され、同島の警備に任じていたが、米軍の銃爆撃と食糧不足によって終戦時には兵力84名となっていた。

8月28日の降伏式に先立って、25日に聯隊は師団命令により軍旗を奉焼したが、片岡薫師団長の特別の考慮により旗竿だけを焼き、他の部分は細断して米軍に見つからないように隠して日本に持ち帰ることにし、9人の将校がこれを持ち帰った。 その後、軍旗の細片は宮内庁に納められたがそのまま倉庫に放置され、昭和47年になって戦友会である歩一会の手に戻った。 軍旗は継ぎ合わされて復元され、現在は陸上自衛隊練馬駐屯地の資料館に保管されている。 また、一部は、乃木神社と靖國神社に奉納されている。

(平成11年10月16日初回撮影、10月20日掲載、10月27日増補改訂、平成13年8月27日、平成21年12月14日改装