(現、国立新美術館、政策研究大学院大学、日本学術会議図書館都立青山公園、星条旗新聞社)

旧兵舎(取り壊され現在は一部のみ移築保存)

歩兵第三聯隊・近衛歩兵第五聯隊・近衛歩兵第七聯隊跡は、東京都港区六本木七丁目、東京ミッドタウン(防衛庁跡地)の南西約200メートルの地域にあり、現在は国立新美術館、政策研究大学院大学、日本学術会議図書館都立青山公園、星条旗新聞社の敷地となっている。

国立新美術館と政策研究大学院大学の敷地には、数年前まで東京大学生産技術研究所があり、写真の旧兵舎は同研究所が使用していた。

歩三は、明治7年12月19日軍旗拝受、明治22年、麻布竜土町の兵舎に移転して、歩三は麻布三聯隊と呼ばれて親しまれたという。

写真の建物は昭和3年6月に建てられた歩兵第三聯隊の兵舎であり、ほぼ当時のまま残されている。

建築当時は東洋一の威容を誇っており、当時としては珍しいエレベーターもつけられた。

歩兵第三聯隊主力は、昭和11年5月に満洲に渡り、その後昭和14年8月、近衛歩兵第五聯隊が編成されて当地に駐屯した。

近歩五は昭和16年1月に中国南部へ出動、その後南方作戦に従事した。

その後、当地には新たに編成された近衛歩兵第七聯隊(近衛第一師団隷下)が駐屯した。

跡地に立つ古い建物

陸軍のものかどうかは確証がないが、近いうちに取り壊されるはずなので、参考までに掲載する。東大生産技術研究所跡にある。

旧敷地内に建つ星条旗新聞社とハーディーバラックス

戦後、歩三跡を接収した米軍は、現在もその一部に駐留しており、現在、軍の機関紙である「スターズアンドストライプス」を発行する星条旗新聞社と、宿泊施設のハーディーバラックス及びヘリポートがある。

青山公園の台上から見た米軍ヘリポート

青山公園の高台に上がったところにある記念碑の近くから見た在日米軍のヘリポート。フェンス1枚で仕切られているだけで、全くの地続きである。

麻布台懐古碑

青山公園の高台にある。昭和62年10月、歩兵第三聯隊と近衛歩兵第五聯隊の有志によって建てられたものである。

碑文を見る


歩兵第三聯隊

歩兵第三聯隊は、通称号:豊五六二〇、編成地:東京、編成時期:明治七年十二月十九日軍旗拝受、終戦時の上級部隊:第二十八師団、終戦時の所在地:宮古島。

聯隊は、編成直後に「西南の役」に従軍、熊本方面を転戦した。 その後、明治二十二年、麻布竜土町の新兵舎に移駐した。 

日清戦争では、明治二十七年九月征途につき、二十八年二月太平山の攻略戦に参加、三月田庄台攻撃に参加、六月に帰還した。 この間の戦死者七十七名。

日露戦争では、金州や南山の攻撃に参加し、続いて旅順要塞攻撃に参加し戦死者七百四十四名を出した。 その後、奉天会戦にも参加した。

明治末から大正期にかけては、聯隊の中から一個中隊を朝鮮や青島の守備隊として度々派遣していた。 昭和期にも、上海や北京などに一個中隊が派遣された。 この間、聯隊本隊は外地に派遣されることはなく、帝都の警備に任じていた。

昭和十一年、聯隊が所属する第一師団が満洲に派遣されることになったが、その直後に歩兵第一連隊・歩兵第三聯隊等の青年将校を中心とする「二・二六事件」が勃発した。 歩三からは、有名な安藤輝三大尉等が参加した。

渡満後の聯隊はチチハルに駐屯し、蘆溝橋事件後はチャハル作戦に参加、万里の長城を越えて進撃し、張家口、陽高城、大同を次々に占領した。 この間の戦死者は百八十三名であった。 昭和十四年七月、速射砲一個中隊が「ノモンハン事件」に派遣され、約二十名の戦死者を出した。 聯隊主力も八月に派遣されたがまもなく停戦となった。 昭和十五年の改編によって、聯隊は第一師団から第二十八師団に転属となった。 昭和十六年七月、関東軍特別大演習(関特演)が実施され、八月に聯隊は北安からハルビン郊外の孫家に移駐、ソ連軍に対する防衛に任じた。昭和十七年には関東軍陣地攻撃特別演習が実施された。

昭和十九年六月、第二十八師団は沖縄方面の防衛を下令され、八月に宮古島平良港に上陸、西南地区の陣地構築や飛行場建設に従事した。 昭和二十年三月、米軍が慶良間列島に上陸、四月一日には沖縄本島に上陸開始、五月には宮古島も艦砲射撃を受けたが上陸は行われず、そのまま終戦をむかえた。 九月上旬、中飛行場において軍旗奉送式を挙行、野原岳山麓(沖縄県宮古郡下地村字野原)で軍旗を奉焼した。 九月中旬、米軍が宮古島に上陸。 昭和二十一年二月十一日、浦賀に帰還、解散した。

初代聯隊長は中村尚武中佐、第二十二代は永田鉄山大佐、第二十三代は山下奉文大佐。 最終聯隊長は、怡土軍大佐。


近衛歩兵第五聯隊

通称号:宮三八〇四、編成地:佐倉、編成時期:昭和14年10月25日軍旗拝受、終戦時の上級部隊:近衛第二師団、終戦時の所在地:ラビンチンギ(スマトラ島)、最終聯隊長は沢村駿甫。

昭和15年12月4日、動員下令。 翌年1月12日、広東省中山県唐家に上陸し、以後約7ヶ月間にわたり同地区周辺の警備に任じた。 8月には雷州方面作戦に従事、次いで南部仏印に進駐し、約4ヶ月間警備任務についた。

昭和16年12月、大東亜戦争開戦とともに山下奉文中将指揮下の第二十五軍に編入され、近衛師団の基幹部隊としてタイに進出した。 翌17年1月18日、タイ・マレー国境を通過しイギリス・インド軍の抵抗を排除しつつシンガポールに向けて前進したが、途中森林地帯においてインド軍の防御陣地に遭遇し、激戦の末これを撃破した。 マレー半島西海岸を進撃する近歩五は、聯隊長岩畔豪雄大佐の名を取って「岩畔追撃隊」と呼ばれたが、将兵が緑色の防暑略衣を着用し現地調達の緑色の自転車に乗っていたことから、別名「青シャツ自転車隊」とも呼ばれていたという。

2月15日、シンガポール攻略に参加し、先陣の第二大隊(大隊長:渕少佐)はジョホール水道で急流に流され予定上陸地点に上がれなかったが、ウッドランド高地を攻撃、聯隊主力も続いて上陸し、南部水源地付近の高地を占領した。 更に105高地の攻略にも参加した。

シンガポール陥落後、スマトラへ転戦し、平定作戦に参加した。 3月27日からはジャワ・マレー地区の警備に当たった。

昭和18年6月、内地で近衛第一師団が編成され、南方に展開しているそれまでの近衛師団は近衛第二師団と改称された。 これに伴い、近歩五も同師団に編入された。 9月には、第一大隊がアンダマン群島に分派された(後、近歩五から外れて独立混成第三十五旅団独立歩兵第二百五十四大隊になる)。

昭和19年1月、改編が行われ、砲兵・工兵・船舶部隊を有する海上機動旅団と同じ編成の大部隊となった。 爾後、メダン付近において海上機動訓練を行っていたが、終戦後の9月22日、バシランゴム農園で軍旗を奉焼し、聯隊の歴史に幕を閉じた。


近衛歩兵第七聯隊

通称号:東部八部隊、編成地:東京、編成時期:昭和18年9月7日軍旗拝受、終戦時の上級部隊:近衛第一師団、終戦時の所在地:東京、最終聯隊長は皆美貞作。

昭和18年6月1日、近衛混成旅団を基幹として編成、近衛第一師団に編合された。 終戦まで竜土町の兵舎にあり、皇居守護と帝都防衛に任じた。 

(平成13年8月25日撮影)