陸軍豫科士官学校跡

(現、陸上自衛隊朝霞駐屯地ほか)

陸軍予科士官学校要図

朱線で囲んだ範囲が現在の陸上自衛隊朝霞駐屯地の敷地である。 その他の地域は、防衛庁朝霞官舎、税務大学校、和光樹林公園、学校、宅地などになっている。 数年前まで同駐屯地内には予科士官学校の木造建物が何棟か残っていたが、駐屯地の整備により取り壊されて今は全く残っていない。

陸軍予科士官学校は、昭和12年8月の学校令改正によって陸軍士官学校予科が独立したもので、当初は市ヶ谷台(現、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地)に設けられた。 この時、陸軍士官学校(本科)は座間に移転した(同年9月30日)。 昭和16年9月、予科士官学校は手狭になった市ヶ谷台から朝霞ケ原に移転した。 ここは元は「朝霞ゴルフクラブ」であったが、陸軍がこれを買い上げたものである。 終戦時の学校長は、インパール作戦で有名な牟田口廉也中将である。 

@ 振武台碑

昭和18年12月9日、昭和天皇が陸軍予科士官学校に行幸され、この時にこの地を「振武台」と命名された。

終戦時、予科士官学校本部は学校閉鎖のための処理に当たっていたが、この時に最も問題になったのが、「雄健神社(おたけびじんじゃ)」の取り扱いであった。 連合軍によって学校が接収された際に神社が辱めを受けるのを恐れたのである。

各種の案が検討されたが、結局、神霊を振武台碑の地下に埋めることに決した。 高木少佐指揮のもと、8月20日から25日までかかって碑の後方に深さ3メートルの穴を掘り、その中に社殿から取り出した神剣・宝鏡や学校本部の菊花御紋章及び学校名の扁額を白布で覆って埋めた。

その後米軍が進駐し、この碑のある場所は米軍管理地域内となってしまったため、神宝は約20年間そのままになっていた。 昭和40年12月になって、旧士官学校関係者と陸上自衛隊の手によって掘り返されたが、神剣は半ば腐食していた。 御神体は、現在靖国神社に奉安されている。 なお、この時一緒に発掘された御紋章と扁額は、朝霞駐屯地内の振武台記念館2階に保存・展示されている。

A 雄健神社跡

神社の建物は残っておらず、鳥居の礎石などがあるだけである。 また、これらは、社殿が残っていた20年ほど前の写真と比べると位置が移動されているようである。

B 大講堂跡

(現、調整池)

現在は大きな深い穴が掘られているこの場所は、かつて大講堂があった場所である。 10年ほど前はまだ建物が残っていたが、屋根は崩落して空が見え、内部も荒れ放題で、俗に「幽霊屋敷」と呼ばれていた。

C 陸軍豫科士官学校本部跡

(現、東部方面総監部)

平成5年頃までここには陸軍予科士官学校本部庁舎が残されており、陸上自衛隊輸送学校等が入っていた。 

天皇陛下が滞在されるための「便殿の間」もあったが、総監部移転のためにすべて取り壊された。内部は白壁で暖炉や厠(かわや)があった。

D 琵琶湖

(現、渡河訓練場)

正門北側にあった「香取池」と「鹿島池」は埋め立てられてしまったが、「琵琶湖」は往時のまま残されている。

この琵琶湖は、駐屯地内で唯一残っている「朝霞ゴルフクラブ」の遺構であり、池越えショートコースの跡だという。

E 医務室跡付近

(現、調整池)

医務室跡は、地面が掘り下げられて調整池となっており、遺構は全くない。 写真右側の建物は陸上自衛隊体育学校庁舎。

F振武台記念館・予科士官学校正門門柱

(旧陸軍士官学校皇族宿舎)

「振武台記念館」は旧陸軍士官学校(相武台)皇族宿舎を米軍キャンプ座間から移築したもので、現在朝霞駐屯地の広報館として利用されている。

その前にある門柱は、陸軍予科士官学校正門の門柱を移築したもので、旧位置は駐屯地南側の公園敷地となっている。

F 予科士官学校正門門柱

前述のとおり、現在の朝霞駐屯地の南側にある「大泉門」は、予科士官学校の正門の跡ではない。 正門は、大泉門より更に南の、現在公園となっているあたりにあった(現在は全く痕跡はない)。

また、正門のすぐ北側にあった「香取池」と「鹿島池」は、戦後も長い期間残っていたが、現在は埋め立てられていて残っていない。 「琵琶湖」のように自衛隊の敷地内ならば今も残っていたかもしれないが、残念である。

F 「遙拝所」石碑

予科士官学校敷地内に数カ所あった「遙拝所」にたてられていた石碑の一つを振武台記念館近くに移築したもの。

F キャンプイ・ドレイク記念碑

植木の根本にあるので見つけにくいが、昭和20年(1945年)9月2日から昭和25年(1950年)7月21日までこの地に駐屯していた米陸軍第1騎兵師団が残していった記念碑である。

(平成10年11月19日初掲、11年4月5日増補改訂、13年11月3日改訂)