旧近衛第一師團司令部庁舎

【現状: 東京国立近代美術館工芸館】

旧近衛第一師団司令部庁舎周辺の現状

旧近衛第一師団司令部庁舎

北の丸公園に残るこの建物は、明治43年3月に陸軍技師であった田村鎮(たむら・やすし)の設計により建設されたゴシック風煉瓦造り2階建ての建物で、当初近衛師団司令部、近衛第一師団新設後は同師団司令部が使用していた。昭和20年8月15日に、この建物内で森近衛第一師団長が戦争継続派の将校に殺害されている。

戦後は荒廃して放置されたままであったが、昭和47年9月、旧近衛師団司令部庁舎は「重要文化財に指定のうえ、東京国立近代美術館分室として活用すること」とする閣議了解により、昭和48年1月、大蔵省から所管換を受け、文化庁による文化財として復元工事及び陳列館としての整備工事が実施され、工芸館として、昭和52年11月14日に開館した。

建物の基部にある星形

庁舎の基部にある通風口には陸軍の星をあしらった青銅製の枠がはめ込まれている。

庁舎正面

所在地は、北の丸公園1−1。 地下鉄東西線竹橋駅下車

庁舎裏側

庁舎遠景

庁舎のすぐ前を首都高速道路が通っており、ちょうど堀を切ったようになっている。

防空施設跡

上の写真を撮った辺りにあるもので、よく見ないと見落としてしまいそうなものである。写真中央付近に入口跡があり、その周辺にはコンクリート片や鋼管などが散見される。

防空施設入口跡

かなり昔に封鎖されたらしく、現在は上部がわずかに露出しているのみである。

北白川宮能久銅像

能久親王は、弘化四年(1847)、伏見宮邦家親王の第九皇子としてご誕生。 嘉永元年(1848)青蓮院宮ご相続、安政五年(1858)輪王子宮ご相続、公現法親王(俗名能久)と称し、上野寛永寺門跡となられた。 維新後の明治三年(1870)還俗して伏見宮にご復帰、軍籍に就かれた。 同年、勅命によりプロシヤ国留学を命ぜられた。 歩兵・砲兵聯隊及び参謀学校で兵学を学ばれた後明治十年ご帰朝、近衛砲兵聯隊附。 ご留学中の明治五年に北白川宮ご相続。 明治十七年、陸軍少将。歩兵第1旅団長、参謀本部ご出仕。 同二十五年、陸軍中将。 第六・第四師団長をご歴任。 明治二十八年一月、近衛師団長。 日清戦争後の台湾征討にご出征、現地で疫病にかかられ、十月二十八日に台南でご逝去(49歳)。 陸軍大将に任ぜられ、大勲位菊花頸飾及び功三級金鵄勲章を賜り、国葬をもって豊島岡稜に御埋棺された。 この銅像は、明治三十七年一月二十六日、旧江戸城北の丸に駐屯していた近衛歩兵第一・第二聯隊正門前に設置された。 戦後も、皇族の銅像はさすがに撤去されなかったが、昭和三十八年、北の丸公園整備計画に従い、旧近衛師団司令部庁舎東側(正門跡から約60m西)に移された。 像の製作は、台湾征討時に近衛騎兵として側近に仕えた新海竹太郎、鋳造は陸軍砲兵工廠である。 昭和六十年には、傷んだ箇所の修復が行われた。

(平成13年11月17日)