陸軍省・参謀本部・教育総監部等跡

(防衛省、日本育英会、警視庁第5機動隊ほか)

東表門跡

現在は防衛省正門となっている。戦後の道路拡幅や防衛庁移転時の工事により、門の位置は当時よりも数メートル程度ずれているのではないかと思われる。

市ヶ谷台は、江戸城西北外郭の緊要地形であり、徳川時代には親藩筆頭尾張家の藩邸が設けられていた。しかし、幕末には江戸城を狙う官軍の砲兵陣地となり明治維新を迎えた。その後、明治8年に陸軍士官学校が設立された。昭和12年、陸軍士官学校は座間に移転、残った予科士官学校も16年末に朝霞台に移転し、かわって大本営陸軍部・陸軍省・参謀本部・教育総監部・機甲本部等が逐次移転してきた。昭和20年8月の終戦後は第一復員省が設置、21年5月からは悪名高き「極東軍事裁判」が開廷された。22年からは米極東軍司令部や国連軍司令部などに使用されたが、34年に防衛庁に移管され、陸海空幹部学校や東部方面総監部などが逐次置かれた。平成12年5月8日、檜町から防衛庁が移転し現在に至る。

南通用門(市ヶ谷見附門)跡

昭和初期頃に敷地の市ヶ谷駅に近い場所に新たに作られた門で、現在のグランドヒル市ヶ谷旧館前の高くなった場所の前の北側車線付近にあり、そこから今のグランドヒル市ヶ谷の結婚式場チャペルの辺りを通って正門から続く上り坂のカーブに突き当たっていた。戦後すぐの「極東軍事裁判(東京裁判)」では、東條元総理大臣以下の人々を乗せたバスがこの門から出入りしていた。戦後の造成工事により現在は全く痕跡がない。

西表門跡と坂町坂

陸軍士官学校時代、外出から帰った候補生達がこの坂町坂(写真手前の坂)を通ると、また鍛えられるのかと地獄のように思えたということから、通称「地獄坂」と呼ばれていた。

現在は主に工事用車両専用の出入口及び道路となっているらしく、普段は閉まっており人も通らないようである。

写真左側の高台には皇族用宿舎があった。戦後は倉庫として使われていたらしいが、現在は新しい建物に建て替えられている。

北通用門(左内門)跡

敷地の北東にある門で、元は尾張藩邸の裏門があった。この門の近くに「左内(さない)」という屋敷があったため、裏門と坂道を左内門と左内坂と呼ぶようになり、やがて付近の町名も左内町となったと言われている。

西通用門(薬王寺門)跡

敷地の西側にある門で、元は尾張藩邸の西門があった。この近くに薬王寺(やくおうじ)という寺があり、いつしか門は薬王寺門、付近の町名も薬王寺町と呼ばれるようになったという。

旧陸軍省・参謀本部・教育総監部庁舎

元は、昭和12年6月に竣工した陸軍士官学校本部庁舎であり、上から見ると「日」の字を横に倒したような形をしていた。昭和16年以降は、向かって左側に陸軍省、右側に参謀本部が入った(3階の右側の一部は教育総監部)。中央に大講堂があり、戦後、「極東軍事裁判」の法廷として使われた。

防衛庁移転前は「1号館」と呼ばれていて、東部方面総監部などが入っていた。昭和45年11月25日、三島由紀夫氏が籠城して自決したのもこの建物である。

激動の歴史を見続けてきた1号館も、防衛庁の市ヶ谷移転時に取り壊され、玄関や講堂など建物の一部を組み合わせて移転・再建された。現在は「市ヶ谷記念館」として一般公開されている。

なお、現在この記念館がある付近は、終戦時は第一総軍司令部があった場所で、総軍司令官杉山元帥と司令部附吉本大将が自決している。

雄健神社旧位置

写真中央やや左の位置に平成14年春頃まで雄健神社があったが、「メモリアルゾーン」の広場造成に伴い少し高い地点に移設された。

写真右手前に士官候補生教育用の「海岸要塞砲陣地」跡が残っている。

海岸要塞砲陣地

士官学校時代、教育用に作られた砲台の跡で、当時は砲が2門(28インチ砲と24インチ砲)据えられていたという。

現在は東側の掩蓋掩体だけが残っているが、樹木に覆われ、最近植えられた生け垣に隠れていて目立たなくなっている。外からのぞくと、内部は案外広く、砲を設置したコンクリートの円形の台座も完全な形で残っている。

入口は後方(北側)にあったと思われるが、現在は工事で埋められていてわからない。

陸軍少佐晴気誠慰霊碑

晴気少佐は、大本営陸軍部作戦班に勤務中、マリアナ諸島防衛計画のうちのサイパン島の担当者で、米軍が来攻した昭和19年6月、現地作戦指導のためサイパンへの派遣を具申して許可されたものの、既に敵の航空優勢下にある同島に渡ることが出来ず、さればと夜間の落下傘降下まで企図したがこれも果たせないまま、サイパン島守備隊は玉砕してしまった。少佐は、爾後の戦況不振はこのサイパン失陥がもたらしたものであると自責の念にかられ、死所をを探し求めていたがそのまま終戦となった。

昭和20年8月16日の夜10時頃、参謀本部第2課で行なわれた夕食会の後、市ヶ谷台上の宿舎に戻った少佐は、同期の益田兼利少佐に対して、「今夜自決しようと思い遺書も整えてある。黙って決行しようと思ったが、もし失敗でもして見苦しい死に方はしたくない。誰に頼むわけにもゆかぬ。迷惑だろうが見届けてくれ。貴様を親友と頼めばこそである。男の頼みをきいてくれ。」と決意を述べた。 益田少佐は自決を思いとどまらせるべく数時間にわたり説得を続けたが翻意を得られないまま二人は就寝した。 深夜、益田少佐が物音に目を覚ますと、晴気少佐は服装を整えているところであった。晴気少佐は、「益田、起きたか。俺はやはり今から自決する。男の頼みだ。立ち会ってくれ。」と再度自決の決意を述べた。益田少佐も遂に折れ、「それでは引き受ける。」と言った。二人は8月17日の夜が明けかけた市ヶ谷台を歩いて大馬場上の大正天皇の御立所に向かった。晴気少佐はまず宮城(皇居)を、続いて靖國神社遙拝した後端座し、軍衣を脱ぐとこれを畳んで右側に置き、軍刀を抜いて切先から2寸ほどの所を繃帯で巻き、拳銃に弾を装填して右に置いた後、再度宮城を拝して益田少佐をかえりみて、「同期生として迷惑をかけてすまぬ。元気でやってくれ。失敗したら拳銃で撃ってくれ。では頼む。」と、平静に別れを告げた。「安心してやってくれ。」と益田少佐が答えると、シャツを捲り上げて軍刀を手にし、「失敗せぬよう腹は程々に切るから。」と作法に従って軽く下腹を切り、「これでよし。」と軍刀を右側に置いて拳銃に持ち替えるや、銃口を口にして発射した。少佐の遺体は市ヶ谷台で荼毘にふされたがその場所は明らかではない。

砲一碑

野砲兵第一聯隊と野砲兵第百一聯隊の戦友会が建立した記念碑で、昭和44年6月3日に現在市ヶ谷記念館がある付近に建てられた。メモリアルゾーンの整備に伴い現在地に移された。

九九式十糎山砲

以前から市ヶ谷駐屯地で屋外展示されていたのでご存知の方も多いはずである。

大元帥陛下御立所

大正天皇が陸軍士官学校行幸の際にこの付近から大馬場を見下ろして候補生達の教練の様子を視察された場所。大きな一枚岩が置かれている。

大馬場跡

現在は車両整備場になっている。

(平成14年10月14日)