【平成13年3月12日掲載、平成16年7月4日修正】

今回紹介する写真帖は、館長の祖父の遺品です。 祖父はかつて陸軍に奉職しており、生涯これを誇りとしていました。 外地からの復員後、住まいを何度か移転したため陸軍時代の品物はあまり残っていませんが、若干の軍装品等の他に当時の写真帖が3冊遺されています。 写真の枚数にして数百枚にもなるものでありますが、今回は、その中から一部を紹介するとともに、参考のため祖父の略歴も併せて掲載させていただきます。

明治42年5月29日 岡山県御津郡で出生。
昭和 4年以前 教員養成所卒業後、東京神田神保町の東京堂書店で勤務
    5年 1月10日 召集により、現役兵として歩兵第十聯隊に入営、機関銃隊に配置。 歩兵二等卒 
    5年12月 1日 歩兵一等卒
    6年12月 1日 歩兵上等兵
    7年 4月 5日 編成下令(満洲事変
    7年12月 1日 三等縫工長。歩兵第十聯隊留守隊附
    8年12月 1日 二等縫工長。歩兵第十聯隊留守隊附
    9年 5月17日 復皈完結
    9年12月 1日 工兵第十大隊附
   10年 6月20日 一等縫工長。工兵第十大隊附
   11年 5月 2日 騎兵第十聯隊兼野砲兵第十聯隊附
   12年 2月15日 縫工曹長(勅令第十二号)
   12年 7月27日 動員下令(支那事変
   12年 7月30日 騎兵第十聯隊補充隊附
   14年 6月 1日 縫工准尉。騎兵第十聯隊補充隊附
   14年10月22日 復皈完結。騎兵第十聯隊附
   15年 8月 1日 編成下令。捜索第五十四聯隊附
   16年12月 8日 大東亜戦争開戦
   17年 4月30日 経技准尉(陸達第二十六号により改称)
   18年 1月 1日 給二等級
   18年 2月17日 臨時編成下令
   18年 3月25日 捜索第五十四聯隊補充隊附
   18年 4月 5日 編成完結
   19年 4月30日 第二方面軍野戦貨物廠附。南方進出のため門司港出発
   19年 5月23日 ハルマヘラ島ワシレ港上陸
   19年 8月29日 セレベス島マカツサル港上陸
   20年 4月30日 第二方面軍司令部附
   20年 5月 7日 セレベス島ランデパオにて三日熱(マラリア)発病
   20年 5月29日 軍令陸甲第八十九号により復皈下令
   20年 6月20日 復皈完結
   20年 6月21日 第二軍司令部附
   20年 8月14日 終戦
   20年12月 1日 主計少尉。第二軍神地区補給隊附
   20年12月 1日 予備役編入
   21年 6月 2日 復員のためセレベス島パレパレ港出発
   21年 6月13日 紀伊田辺港上陸
   21年 6月14日 軍籍解除
   21年〜22年頃 島根県で進駐軍通訳
   22年頃以降 岡山県内で地方公務員として勤務
平成元年10月25日 逝去。享年80歳。法名、楞嚴院宗誠郭翁居士

「夏服デ初メテ外出シタ日」

 昭和5年、夏服で初めて外出した日に撮影した写真。

 当時は、第十師団隷下の歩兵第十聯隊機関銃隊の所属で、陸軍歩兵二等卒だった。

 右側に立っているのは祖父の弟(つまり館長の大叔父)文雄さんで、成人後いったん愛媛県松山市の民間会社に就職するが、召集により姫路の輜重兵第十聯隊に入営、その後満洲に出征し、「依蘭事件」で八路軍と交戦、胸部銃創により戦死した。

歩十の兵営の窓で記念撮影 

 右端が祖父。

 服装は昭五式夏衣だが、襟章・肩章が付いていないことから、三装用の被服と思われる。

演習中の記念撮影

 機関銃の向かって右側に伏せているのが祖父。

 兵達が軍帽に巻いているのは演習における彼我識別用の白い布。

昭五式夏衣を着用した祖父

 2枚目の写真と同じ服装で、襟章・肩章は付けていない。 同じ服装の写真が多数あるが、作業時に着用している場合が多いので、作業服代わりに着ているものらしい。

野外訓練中の記念撮影

野外における天幕前での記念写真。 背景には湖か河川が写っている。 後列向かって左から3人目が祖父。