【平成28年8月18日更新】

旧近衛第一師団司令部本庁舎

『近衛師団参謀終戦秘史』、『水戸教導航空通信師団事件秘史』及び『川口放送所占拠事件秘史』にISBNコード及び図書JANコードが付与されました。

これまでは「私家本」扱いでしたが、今後は正規の書籍として流通させることができることとなりました。

当面は、新たに発行者となる帝國陸海軍史研究会にて取り扱うこととなりましたのでお知らせいたします。

『近衛師団参謀終戦秘史』(第5版第2刷)より一部を抜粋引用(著者承認済み)

1 昭和20年8月15日〜古賀秀正近衛第一師団参謀の自決〜

 その日の帝都東京は快晴で暑い日だった。正午、美しい煉瓦造りの近衛第一師団司令部では、職員が集合してラジオの前に立っていた。やがてラジオのスピーカーから、皆が初めて拝聴する天皇陛下の御声が流れてきた。この玉音放送は、大日本帝國が死力を尽くして戦った大東亜戦争の終結を告げる終戦の御詔勅であった。

 そして、その放送が終わる前、誰かが司令部庁舎二階に駆け上がっていった。やがて、放送が終わりかけた頃、二階から「パン」という拳銃の発射音が聞こえた。放送が終わるとすぐに、森赳近衛第一師団長附だった大久保利通曹長が二階の貴賓室に急いで駆け付けた。室内では、その日未明に殺害された森師団長の遺骨の前で近衛第一師団参謀古賀秀正少佐が最期を遂げていた。古賀参謀は真っ白なサラシを腹に巻いて、割腹の上、拳銃で自らとどめの一発を撃っていた。それは日頃の言動に恥じない見事な自決であった。

 しかし、周囲の人々は、古賀参謀がこの日未明に師団内で発生した「叛乱」の「首謀者」の一人として責任を取って自決したのだ、と思った。否、そう「思い込んだ」のである。そして、その「思い込み」は、戦後六十年をかけて小説や映画等により日本中に拡げられ、深く浸透していったのである。

 以下、本事件について、従来「首謀者」とされてきた、近衛第一師団参謀古賀秀正少佐(陸士52期)・石原貞吉少佐(陸士47期)の視点から再検証する。

2 「宮城事件(八・一五事件)」の概要

 古賀少佐の自決という悲劇を起こした「宮城事件[きゅうじょうじけん](八・一五事件)」とは、狭義には、連合国側からの降伏勧告である「ポツダム宣言」の中に天皇陛下の戦後の地位に関する明確な保証の文言が無かったため、「国体護持」に強い憂慮を覚えた陸軍省軍務局軍務課内政班員畑中健二少佐(陸士46期、陸大53期)・椎崎二郎中佐(陸士45期、陸大53期)ら陸軍省の一部青年将校等により、昭和20年8月14日から15日にかけて引き起こされた一連の「蹶起[けっき]行動」のことをいう。畑中少佐らによる近衛第一師団長殺害、偽師団命令による同師団の出動等の各種事案が一夜のうちに発生した。

 その目的は、和平派側近等を保護拘束した上で天皇陛下の終戦の御聖慮の変更を「直諫」し、当面の間戦争を継続して終戦時期を遷延、その間に連合国側から天皇陛下の国家統治の大権の保証を取り付けようという、「国体護持」を目的とするものであったとされる。世上言われるような、闇雲な「本土決戦」や「徹底抗戦」そのものが目的だったわけでは決してない。この際、畑中少佐等による「近衛第一師団長等の殺害事件」や、終戦詔勅の「玉音盤捜索事件」、これら事件の中心人物であった畑中少佐・椎崎中佐の「自決」等が僅か半日ほどの間に立て続けに発生した。また、この事件は、戦後、『日本のいちばん長い日』や『一死、大罪を謝す』等有名書籍で紹介され、また何度も映画やドラマにされるなどして国民に広く知られるようになった。

 また、広義の意味においては、前述のような畑中少佐らの直接的な蹶起行動だけではなく、その行動のいわば基盤となった、陸軍省軍務局軍務課内政班長竹下正彦中佐らによる「兵力使用計画」や「兵力使用第二案」といった陸軍蹶起の計画策定とこれに伴う一部大本営参謀等の諸活動を含んだ一連の出来事をいう。畑中少佐らの蹶起は、そうした前提条件がなければ起こりえなかったからである。有名な『日本のいちばん長い日』等の「宮城事件(八・一五事件)」を扱った小説や映画等では、そうした非常に重要な前提事項がかなり軽く扱われており、読者や視聴者に大きな誤解を与えている。この事件は、「血気に逸った一部青年将校が終戦を阻止し無謀な徹底抗戦を目論んだ」などという単純なものではなく、もっと根深いものなのである。

3 「宮城事件(八・一五事件)」における古賀参謀の行動

 「宮城事件(八・一五事件)」における古賀少佐の行動については、一般的に概ね次のように言われている。すなわち、森近衛第一師団長が畑中少佐・窪田少佐・上原大尉によって斬殺された後、「偽師団命令」を古賀参謀自らが「作成」してこれを隷下各聯隊等に下達し、師団の一部を動かして宮城を一時「占拠」すると共に一部兵力をもって天皇陛下の玉音盤を捜索したが遂に見つけることができず、最終的に蹶起は失敗、その混乱の責任をとって師団長の遺骨の前で従容として自決した、「血気に逸る青年将校」である、とされてきた。

 ところが、実際はそうではなく、古賀参謀は命令を起案していないし、状況上追いつめられてやむを得ず命令を下達し蹶起に参加したものである、という趣旨の記録があるのである。

 それは、昭和26年、元大本営参謀で陸軍中佐だった橋詰勇氏(陸士44期、陸大53期)が東條大将の御遺族の許を弔問に訪れた際に東條かつ子夫人に語った証言とその時のメモ、それを後日文書化して古賀少佐の長男古賀邦正氏に送った手記(同内容の2通)、そして未発表の手記「悲痛の回想」である。これはあまり知られていない事実なので、まず上記の経緯について詳述する。

 昭和26年4月17日、元参謀本部総務課員(業務調整輔佐)の橋詰勇氏が、かつて東條英機大将が参謀総長を兼任していた時の参謀総長附属参謀を務めていた関係で、戦後戻っていた郷里の高知県から上京し東條家を弔問に訪れた。作家の佐藤早苗氏が東條かつ子夫人(故人)から生前聞いたところでは、かつ子夫人はこの時東條家の離れに住んでいた次男東條輝雄氏(当時三菱重工業川崎製作所勤務。後、三菱自動車会長)と一緒に橋詰中佐の話を聞いたという。(佐藤早苗氏著『東條勝子の生涯』時事通信社、昭和62年4月5日発行 35頁所載)

 この時橋詰中佐は、終戦当日に宮城内で古賀参謀と会ったことや、その時に古賀参謀から直接聞いた話を2人に話した。それまで古賀参謀がなぜ事件に関与し自決することになったのか東條家の人々には全くわからなかったのだが、その核心部分がその時判明したのである。輝雄氏は話を聞いた直後に部屋に閉じこもって橋詰中佐に聞いた話をメモとして書き留めたという。また、かつ子夫人は、橋詰中佐の話を是非文書にして欲しいと頼んだ。それは、幼い古賀参謀の遺児古賀邦正氏のために是非真相を書き残してやって欲しいという思いからであった。

 『日本のいちばん長い日』等の「宮城事件(八・一五事件)」を扱った文献を読むと、大抵は、「古賀参謀は、石原少佐・畑中少佐らと通謀して終戦阻止・徹底抗戦のためのクーデターを引き起こした首謀者である」という様に位置づけられている。しかし、橋詰中佐によれば、話がかなり違うのである。

 ここで、まず、橋詰中佐が古賀邦正氏に贈った手記の全文を下に掲載する。原本は、罫紙に毛筆で丁寧に認められたものであり、その表紙には、「昭和二十年八月十四日夜」という標題が記されている。

昭 和 二 十 年 八 月 十 四 日 夜

 古賀くにまさ君に贈る

 六年前(昭和二十年)の今夜(八月十四日)は日本及日本民族にとって運命の夜であり悲劇の夜でした 止むに止まれぬ事情から大東亜戦争になって四年、遂に刀折れて連合軍の軍門に降ることとなり十五日正午には終戦の御詔勅がラヂオを通じて御放送せられることになって居りました。この経緯はくにまさ君が成長せられるに従い再建日本の尚い教訓としてしっかり御調べ下さい。 私は十四日から十五日にかけてあなたの御父様古賀少佐参謀がどの様にして断末魔の日本の運命を切り開こうとされたか武人として古賀参謀は非常の時にどの様にして身を處したかの点を主として申し上げ度と存じます。

 私は昭和十九年四月当時総理大臣であり且陸軍大臣であられたあなたの御祖父様の東條英機大将が参謀総長を兼任せられた時に総長附属参謀として御仕へ申上げた次第です。赤松貞雄大佐が総理秘書官、井本熊男大佐が陸軍大臣秘書官並に参謀総長附属参謀でした。私は井本大佐の指導の下に仕事を致して居た譯であります。総理官邸日本間の方には殆んど毎日出務致しましたので御父様ともここで御會い致し色々と御話を致し合ったのです。昭和十九年七月東條大将辞職せられるに伴い御父様と御會い致す機會も少くなりました。当時御父様は陸軍大学校の学生でしたが卒業せられると優秀且高潔な人格の故に撰ばれて近衞師団参謀となられました。前に述べました様に昭和二十年八月、戦争の形勢が香ばしくなくこのまヽでは日本は国民も土地も全部を失うことヽなるとの御聖慮により 天皇陛下は終戦の御決意を下されたのです。御前会議がはっきり定まったのが十四日であったと存じます。私は十四日夜は大本営陸軍部の総務課に詰め切って居りました。十五日午前三時半頃でしたか大本営の地下室にあった無線班(これは宮中の侍従武官府と大本営陸軍部との連絡に当って居た)から武官府から電話ですとの連絡がありました。無線電話で答へますと対話者は清家侍従武官でした。「今近衞師団の部隊が進入して来て蓮沼武官長は監禁され近くの廊下は部隊が厳重に警戒して居て脱出が出来ないから至急連絡に来られ度」とのことでした。私は総務課長に此の旨を報告してダットサンで馳せ付けました。初め英国大使館側の通路より参入し様と思って参りましたが歩哨がどうしても入れて呉れません。それで坂下門の方に廻り衛兵を通じあなたの御父様古賀参謀に面會を申込みました。古賀参謀から「サイドカーを衛兵所まで廻すから先づ近衛師団司令部に来て御待ち下さい」とのことでした。夏の短か夜は既に明けて太陽は東天に昇ろうとして居る時刻でした。御示の通り師団司令部に参りました。其處はひっそり閑として階下の一室には昨夜畑中参謀(少佐)の手に斃れた森赳師団長の遺骸が安置されて居りました。全く呼吸も止る思いで待って居りましたところ古賀参謀の指示を受けた自動車が迎えに来て呉れましたので直ちに乗車。車は宮城内御守衛隊本部に向いました。司令室には師団長代理並畑中、椎崎、古賀の三参謀及副官その他将校が多数居られました。私が同室に参りますと畑中参謀が「陸軍大臣は起ちましたか」と非常な期待を持って居る面持で質問しました。私は阿南陸相は昨夜官邸にて自決された旨を答えました。人々はガク然とした様子でした。同参謀は次で「私達のやったことはイイですか悪いですか」との正邪の判断を求められました。私は「正しいと思います」と答へました。次で古賀参謀が「橋詰参謀御話し申し度ことがありますチョットこちらへ」と先に立って守備隊本部を出て行かれました。私は其の後に続きました。二人は伴蔵門の側の松並木の堤の上に行きました。古賀参謀は静かに又ゆっくりと口を切りました。

 「実は昨日(十四日)父に會い如何なる変化が生じても大命に従って行動しなくてはならぬ これが軍人の生命であると申され私も必ず左様致しますと誓って司令部に皈りましたところ此の度の師団命令を示され他の参謀は既に連帯印(責任を以って賛成する意)を捺してあるので最も若年の自分としてこれに同意しない譯にはゆかない立場にあり連帯いたしました。私としては潔く自ら責任を取り度と存じて居ります この気持をどうか御汲み取り下さい」と落涙されました。私も感極まって共に泣きました。後は無言のまヽです。私が御守衛隊本部を去って間も無く東部軍司令官田中靜一大将が来られ大命に従ふべき旨こんこんと諭され部隊は戦斗部署を解き各参謀は身を以って責任をとるべく自決されたのであります。

 あなたの御父様も。

 人と生まれ身を以って職に殉ずる程崇高なことはありません かくすればかくなるものと知りつヽ自ら己の生命を断れたことにつき何で私ごときが批判がましいことを申し上げられましょう。

 止むに止まれぬ情義に殉じた御父様の御意志をしっかりと抱いて慈愛深き御母様の御訓に従い大成せられんことを心より祈り対して居ります。巷間には東條が女婿古賀参謀をして森師団長を殺害せしめた等の説をなすものがあるやに聞きますがその様なことは絶対になかったことを神かけて申上げます。至誠は天に通ずとか どこ迄も明るく、浄く、正しく成人されんことを。

 昭和二十六年八月十四日夜

橋 詰 勇(印)拝記

 この橋詰中佐の手記の内容は、以前、佐藤早苗氏の『東條勝子の生涯』34頁から38頁に掲載されたことがあり(なお、佐藤氏が写したのは、東條かつ子夫人の希望により橋詰氏が右に掲げた文書を再度書き直して送ったものの様で、一部細かな文言の違いがあるが内容は同じ。同一内容のものが二通あるということは下書き=原稿があるということであり、橋詰中佐がかなり真剣に記述したことが窺える。)、また、一部は中日新聞社参与だった故平野素邦氏の『戦争責任我に在り』(光文社、平成7年6月30日発行)59頁から60頁にも引用されているので、これらを読んだことのある人々はこの話を承知しているわけである。

 また、橋詰中佐が書き残したのは前記の2つだけではなく、『悲痛の回想』という、原稿用紙に書かれた未公開の手記もある。これも内容はほぼ同じであるが、より詳細なものとなっている。これは後で紹介する。

 しかしながら、これらは東條大将とかつ子夫人(なお、戸籍上の本名は「カツ」であるが、生前は戦時中を除き基本的に「東條かつ子」を名乗っていたので「かつ子」と表記する。)を主題とした書物であったためか、「宮城事件(八・一五事件)」関係者や近衛第一師団関係者、或いは事件について調べている人々の目には殆ど触れなかったらしく、事件に関する古賀参謀の肉声を伝えるこの極めて重要な橋詰中佐の手記・証言を内容に取り込んでいる文献を、前記2冊の他筆者は承知していない。

 ところで、佐藤早苗氏の著述によれば、この橋詰中佐手記には、昭和26年に東條かつ子夫人が橋詰中佐と直接話した際に中佐から聞いた話の内容と比べると、意図的に書かれなかったのではないかと思われる点があるという。橋詰中佐の話を聞いた直後に書かれたという東條輝雄氏のメモには、次のような一節(古賀参謀の発言内容)があるという(なお、東條家の御協力を得て調査したところ、現在原本は所在不明であった。そのため、ここでは佐藤早苗氏著『東條勝子の生涯』39頁1〜8行を引用させていただいた。なお、念のため佐藤早苗氏に筆者が文書で直接確認させて頂いたところ、この文章の内容は絶対に確かである旨断言する明快な御返信を頂いたのでここに付言しておく。)。

 今度ノ事ノ経緯ニツキ君ニ聞イテオイテ貰イタイ。実ハ用賀ノ父カライロイロ諭サレタ。スベテ陛下ノ御命令ニヨリ動クノダト詢々ト話サレ、自分ハヨク了解シテ司令部ニ帰ッテミルト留守中ニ畑中氏等ガ来テ居リ師団長ハ殺サレテ居タ、ソシテ決起ノ連判状ニ参謀長ヲハジメ他ノ参謀モ署名ヲ終ッテイタ。ソノ会議ニ自分ハ二時間遅レテイタ。ソシテ事ハ決定済ノ状態デ自分一個ガ反対ヲトナヘル余地ハ既ニ全クナカッタ。止ムヲ得ズ自分モ署名シタ。処ガ、参謀長、高級参謀何レモ不在トナリ、約シタ時刻ニナルモ帰来セズ自分ノミガ残ッタ。従ッテ連判セシ以上止ムナク自分ガ命令ヲ出シタ。一度署名シタ以上自分ハ此責任ハトル。唯此ノ間ノ事情ヲ聞イテオイテ貰イタカッタ

 前掲の古賀邦正氏に贈られた手記で意図的に書かれなかったのではないかと思われるのは、このメモの後半部分に出てくる、森師団長が殺害された後の師団の最高責任者たる師団参謀長水谷一生陸軍大佐(陸士33期、陸大専科第5期)と他の参謀(先任参謀石原貞吉少佐と参謀溝口昌弘少佐のこと。石原少佐は陸士47期・陸大60期で2日前に着任したばかり。溝口少佐は陸士49期・陸大57期で、事件当日は皇太子殿下警護任務のため日光にいた。二人とも古賀参謀より先任者である。)が出払っていなくなり、約束の時間までに帰って来なかったため、独り残された古賀参謀がやむを得ず命令を下達した、という点である。

 これは、古賀参謀が自主的・積極的に命令を各部隊に下したのではないことを意味しており、非常に重大な証言である。ところが、佐藤氏も指摘しておられるとおり、重大であるが故に、橋詰中佐としてはまだ当時生存していたかも知れない水谷参謀長等に配慮して、文書として残すことに躊躇を覚えた可能性がある(実際は、水谷大佐は昭和24年に逝去。石原参謀は昭和20年8月19日に上野で殉職、溝口参謀は陸上自衛隊で勤務後平成8年に逝去)。

 これが本当に事実であるならば、そのまま放置していては誤った事柄が『歴史上の事実』として定着してしまう。これはまさに「歴史の改竄」であり、絶対にいけないことである。誤りは正さなければならない。

 古賀参謀が涙ながらに死の数時間前に橋詰中佐に語ったことは、すなわち古賀参謀の「遺言」に他ならないのである。

 

 

本書は、昭和20年8月に発生した「宮城事件(8・15事件)」及び「水戸教導航空通信師団事件」等について、

当時近衛第一師団参謀だった古賀秀正少佐(陸士52期)と石原貞吉少佐(陸士47期)の視点から再検証したものであり、

従来『日本のいちばん長い日』等で広く流布されてきた定説(古賀参謀・石原参謀首謀者説等)を覆す内容を含んでいます。

本書のこれまでの発行総部数は、合計420部(初版〜第5版)です。

最新刊の第5版(第3刷)は第4版の誤字等を修正したものですが、入手は可能です。

頒布価格: 6,000円(税別)

お問い合わせは帝國陸海軍史研究会にお願い致します。

(現在絶版につき在庫はございません。10部以上の発注があれば増刷いたします。)

なお、本書は下記の図書館等で閲覧することが出来ます。

『近衛師団参謀終戦秘史』主要収蔵期機関

(公共図書館等)

● 靖國偕行文庫(第四・五版あり)

● 防衛省防衛研究所図書館史料室(第四・五版あり)

● 国立国会図書館(東京本館・関西館)(第四・五版あり)

● 山形県立図書館

● 茨城県立図書館

● 佐賀県立図書館

● 東京藝術大学附属図書館

● 東京国立近代美術館アートライブラリ

● 東京国立近代美術館図書閲覧室

● ベルリン国立図書館(Staatsbibliothek zu Berlin)

〔〔 第五版 正誤表 〕〕

20ページ上段13行

「陸士四十九期」とあるを、「陸士四十四期」に修正

〔〔 第四版 正誤表 〕〕

20ページ上段13行

「陸士四十九期」とあるを、「陸士四十四期」に修正

64ページ下段12行 「綾部中学校卒業」とあるを「園部中学校四年修了」に修正

83ページ上段4行

「洋裁」とあるを 「要塞」に修正

298ページ 挿図

「陸軍電波兵器練習部」を削除

309ページ上段2〜3行

「(現在の神戸大学の前身)」とあるを、「(昭和十九年に「兵庫県立神戸経済専門学校」に改称、

昭和二十三年に「神戸商科大学」となり、平成十六年に姫路工業大学・兵庫県立看護大学と統合

されて「兵庫県立大学」の経済学部・経営学部となった。)」に修正

310ページ上段18行

行頭に「同年九月」を追加

313ページ上段目1行

杉少佐と津田少佐は陸士五十三期の同期生だった。」を削除

313ページ下段15〜19行 

昭和二十年五月三日に水戸教導航空通信師団隷下の『陸軍電波兵器練習部』に変わった。

この改編時、指揮官が長岡教育隊長丹羽勇大佐(陸士三十二期)から陸軍電波兵器練習部長

今西六郎中将(陸士二十七期)に交代している。」とあるを、「昭和二十年五月三日に陸軍電波

兵器練習部(東部第九十二部隊)に編合されて「第一教育隊」に改称された。同練習部の本部

は東京都北多摩郡小平町(現在の小平市)の東京産業大学(東京商業大学が改称したもので、

現在の一橋大学の前身)豫科構内に設置されていた。」に修正

各ページ共通

本文中の中野学校教官吉原政巳氏は文官であり、「陸軍中佐」とあるは誤り。

各ページ共通

本文中の「航技中尉」とあるを「技術中尉」に修正

本書は、昭和20年8月中旬に発生した、「水戸教導航空通信師団事件」について、関係者の証言や

様々な関係史資料により、今日に至るも詳細が不明確である本事件の実情を明らかにするものです。

基本的には、『近衛師団参謀終戦秘史』で述べたものと重複する内容ですが、追加取材や資料発掘等

により、本事件及び皇太子殿下擁立構想に関する分析等の関連事項について、

更に幅広く且つ深く細部に至るまで詳述されています。

頒布価格(実費+送料): 在庫切れ中

「水戸教導航空通信師団事件」の概要

 昭和二十年八月十五日、現在「終戦記念日」と呼ばれるその日の昼、ラジオから雑音混じりの「玉音放送」が流された。その直後から、各地の陸海軍部隊では一様に動揺が拡がっていたが、時間の経過とともに大部分の部隊は粛々と復員に向けて動き始めた。しかし、一部の部隊では徹底抗戦の動きを見せたり、あるいは逆に、規律が弛緩して無断離隊や軍需物資横領が発生したりするなどした。

 「徹底抗戦」を叫ぶ陸海軍将兵は全国各地に大勢いたものの、全体的には天皇陛下のご命令に無条件で従う「承詔必謹」が大勢であり、実際に部隊としてある程度まとまって行動したのはごく少数にとどまった。本書で取り上げる、岡島哲少佐率いる水戸教導航空通信師団教導通信第二隊第二中隊による一連の事件(「水戸教導航空通信師団事件」)はその一つである。

 八月十五日昼、空襲を避けて茨城県水戸市郊外に疎開していた同師団でも、将兵は集合して「玉音放送」を拝聴したが、これに納得できない岡島少佐ら一部将校は、「東京で終戦阻止のために蹶起した部隊があるらしい。」との情報に基づき、自分たちもこれに合流しようと上京を検討した。岡島少佐の同期生で教導通信第二隊附の杉茂少佐や、中隊の部下である林慶紀少尉は、他の中隊に蹶起参加を呼びかけるが反応は芳しくなかった。また、上官である教導通信第二隊長田中常吉少佐は、当初から首尾一貫して蹶起に反対し軽挙妄動を戒めていた。しかし、岡島少佐は、第二中隊を基幹として臨時の「大隊」を編成し、夜襲訓練を行う等準備を進めた。

 翌十六日の日中、教導通信第二隊では非常呼集が行われ、「筑波山に立て籠もる」という名目で「斬込隊」が編成された。また、第二中隊の荒牧健一郎中尉は、以前陸軍戸山学校で知り合った、第八十一師団歩兵第百七十二聯隊大隊長の津田耕作少佐を訪問して蹶起を促したが、結局津田少佐は動かなかった。

 十七日未明、林少尉は蹶起に同意しなかった上官の田中少佐を射殺(「田中常吉少佐射殺事件」)、続いて吹田隆一技術中尉を刺突し負傷させた。(「吹田隆一技術中尉傷害事件」)。この後、何者かによる「師団司令部襲撃事件」も発生した。次いで林少尉は中隊長岡島少佐に蹶起の意見具申をした。岡島少佐は慎重に状況判断をしようとしていたところだったが、田中少佐殺害を聞いて速やかな出動を決心した。そして非常呼集をかけて水戸駅まで徒歩で行軍、たまたま入線した仙台行き下り列車を徴発し、機関車を前後付け替えて乗り込み東京に向かった。上京した部隊は鶯谷駅付近で下車、線路伝いに徒歩で上野公園に入った。そして斥候が上野公園内にある東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)が無人であるのを見つけ、同校に一時進駐(占拠)、ここを拠点として、各人の人脈を辿るなどして各方面に蹶起参加を呼びかけた。これがいわゆる「上野公園占拠事件」の始まりである。また、同じ十七日の朝、対空航測乙種学生長浜田卓志中尉が率いる第二陣が殿軍(しんがり)として師団を出発する際、これを止めようとした吹田技術中尉を松島利雄少尉が射殺したという(「吹田隆一技術中尉射殺事件」)。

 一方、「宮城事件(八・一五事件)」に巻き込まれ、八月十五日早朝に東部憲兵隊に一時身柄を保護された近衛第一師団参謀石原貞吉少佐は、当日夕方には師団司令部に原隊復帰していた。十七日、上京した岡島少佐は上木稔夫少尉・青山功少尉を連れて同司令部に赴き、自分が士官候補生だった時に陸軍士官学校本科教練班長だった石原参謀と面会、同参謀から終戦の詔勅が真実であることなどを聞かされた。その後、石原参謀は、東部軍管区司令部の依頼もあって上京部隊に対する撤収の説得を数日にわたり実施した。

 十八日朝、水戸に帰る決心をした岡島少佐は、石原参謀から聞いた話を部下に話したが、十九日になって決心が揺らぐこともあった。

 その十九日午後、杉少佐と前田中尉は、陸軍航空本部に情勢の確認と諸先輩の意見を聞きに行ったが、水戸で聞いた情報とは全く情勢が異なり、逆に「全員引き揚げなければ武力行使する。」という通告を受けた。驚いた前田中尉は、急ぎ上野に帰隊し、岡島少佐に詳細を報告して部隊の撤収を進言した。その後、夜になって学校正門前のロータリー(低い築山)で「円陣会議」が行われた。この「円陣会議」では、撤収か抗戦続行かの激論が交わされた。会議には教導航空通信師団の将校だけではなく、石原参謀と東京湾兵団参謀中島憲一郎中佐らが加わっていた。やがて、激論の末に撤収することに決したとき、林少尉が拳銃を抜いて石原参謀を突然射殺した。次に、林少尉は銃口を杉少佐に向けたが、それを見た荒牧中尉が咄嗟に林少尉の拳銃を持った右手首を軍刀で斬った。それから林少尉は拳銃で自分の腹部を撃って自決を図り、荒牧中尉が林少尉の介錯をした。また、松島少尉は、宿舎内の部屋で小銃を使って自決した。そして岡島少佐以下の部隊は逐次水戸に引き上げていったのである。

 しかし、帰隊後間もなく、浜田中尉が兵舎内で遺書を認めて自決。また、生き残った主要関係者に対する田中師団長の処置は苛烈であり、リーダー格であった岡島少佐・杉少佐と、林少尉を介錯した荒牧中尉が相次いで自決することとなった。

 そもそも憂国の至情から始まったこの事件は、最終的に、終戦後多くの有為の人材を失って幕を閉じるという悲劇的な結末を迎えたのである。それは、あたかも、かつて同じ場所で江戸幕府を守るために戦い敗れた彰義隊のようであった。

(『水戸教導航空通信師団事件秘史』草稿案の序章より引用。著者許諾済み)

岡島哲陸軍少佐の墓

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『水戸教導航空通信師団事件秘史 昭和の彰義隊の悲劇』目次

まえがき

目 次

凡 例

序 章 水戸教導航空通信師団事件の概要

 一 趣旨

 二 「水戸教導航空通信師団事件」の概要

第一章 水戸教導航空通信師団の終戦(八月十五日)

 一 趣旨

 二 八月十五日の概況

 三 陸軍航空通信学校の沿革

 四 水戸教導航空通信師団の沿革

 五 水戸教導航空通信師団の八月十五日の状況

第二章 蹶起の胎動(八月十六日)

 一 趣旨

 二 概況

 三 水戸教導航空通信師団の八月十六日の状況

 四 終戦直後の近衛第一師団司令部の状況

 五 終戦前後の近衛第一師団日光儀仗隊の状況

 六 終戦直後の東京湾兵団の状況

 七 終戦直後の第二百十四師団の状況

第三章 三つの事件と臨時大隊の上京(八月十七日)

 一 趣旨

 二 概況

 三 水戸教導航空通信師団の八月十七日未明から午前の状況

 四 八月十七日午後の状況

 五 石原参謀が水戸教導航空通信師団将兵の説得に関与した経緯

 六 八月十七日夜の動き

 七 陸軍航空士官学校士官候補生に対する蹶起参加説得

 八 八月十七日の陸軍航空本部の状況

 九 八月十七日の東京湾兵団の動き

第四章 上京部隊の活動(八月十八日)

 一 趣旨

 二 概況

 三 上京部隊の状況

 四 近衛第一師団司令部と水戸の状況

第五章 上野の森の悲劇(八月十九日)

 一 趣旨

 二 概況

 三 中島中佐、日光儀仗隊に蹶起を呼びかけ(十九日昼頃)

 四 東部軍管区司令部・陸軍航空本部による説得

 五 杉少佐・前田中尉の陸軍航空本部訪問(十九日午後)

 六 東京美術学校内の状況

 七 石原参謀の殉職

 八 林少尉と松島少尉の自決

 九 上京部隊の撤収

 十 神野中佐の動き

 十一 石原参謀の遺体収容

 十二 松島少尉と林少尉の遺体の処置

 十三 杉少佐、藤野憲兵中佐に面会

 十四 九段憲兵分隊玉井憲兵准尉の記事について

第六章 岡島少佐等の自決(八月二十日以降)

 一 趣旨

 二 概況

 三 水戸教導航空通信師団関係者の処分

 四 水戸の状況

 五 近衛第一師団の状況

 六 東京湾兵団参謀中島中佐の状況

第七章 「水戸教導航空通信師団事件」の総括

 一 趣旨

 二 間接的原因(背景)

 (一)陸軍将校への「皇国史観」の浸透

 (二)脆弱な情報・通信

 三 直接的原因

 (一)陸軍航空本部の終戦対応不十分(指揮・統制機能の一時喪失)

 (二)師団長不在による指揮・幕僚活動の停止

 (三)誤情報に基づく誤った状況判断

 (四)林少尉等の過激な思想と強い行動力

 四 意義

 (一)全般

 (二)「情」の世界における意義

 (三)「理」の世界における意義

 (四)事件防止の責任の所在

 五 「宮城事件(八・一五事件)」との関係

 (一)近衛第一師団との連携説

 (二)連携説の検証

 六 皇太子殿下擁立構想との関係

 (一)いわゆる「皇太子殿下擁立構想について」

 (二)「皇太子殿下擁立構想」との関係説

 (三)確認できた具体的な動き

 (四)関係説の検証

脚 注

あとがき

付 録  臨時大隊(上京部隊)参加者名簿

取材等協力者御芳名(五十音順・敬称略・御芳名のみ)

参考出版物・参考資史料(五十音順)

 

お問い合わせは帝國陸海軍史研究会にお願い致します。

(現在絶版につき在庫はございません。10部以上の発注があれば増刷いたします。)

 

〔〔 正誤表 〕〕

44ページ上段2行

「長田章三郎氏」とあるを「長田章太郎氏」に修正

 

本書は、昭和20年8月に発生した、「森近衛師団長斬殺事件」及び「川口放送所占拠事件」について、

関係者の証言や信頼性の高い諸資料により、錯綜する一般刊行物の誤った認識・記述を正すものです。

大まかな内容としては、前半が陸軍通信学校教官窪田兼三少佐と「森近衛師団長斬殺事件」に関するもので、

後半が窪田少佐及び陸軍予科士官学校区隊長本田中尉等と「川口放送所占拠事件」に関するものとなっています。

基本的には『近衛師団参謀終戦秘史』で述べたものと重複する内容ですが、更に広く深く細部まで詳述しています。

頒布価格(実費+送料): 2,500円

お問い合わせは帝國陸海軍史研究会にお願い致します。

(現在絶版につき在庫はございません。10部以上の発注があれば増刷いたします。)

なお、本書初版は下記の図書館等で閲覧することが出来ます。

『川口放送所占拠事件秘史』主要収蔵機関

(公共図書館等)

● 靖國偕行文庫

● 国立国会図書館(東京本館・関西館)

● 防衛省防衛研究所図書館史料室

● 和光市立図書館

● 朝霞市立図書館

● 川口市立中央図書館

● 鳩ケ谷市立図書館

● 寄居町立図書館

● 加治木町立図書館

● 北海道立図書館

● 千歳市立図書館 ほか

〔〔 初版 正誤表 〕〕

8ページ 図

(笹目橋通過後の行進経路)

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9ページ 図

(「安養寺」とあるを「安楽寺」に修正及び「専称寺」を追加)

同上

22ページ下段14行

「綾部中学校卒業」とあるを「園部中学校四年修了」に修正

94ページ下段16行

「安養寺」とあるを「専称寺」に修正

平成28年8月18日、サーバー移転、在庫状況等更新
平成27年1月20日、書籍取扱店にamazon.co.jpを追加

平成26年11月20日、書籍注文先等を帝國陸海軍史研究会に変更

平成26年10月28日、「お知らせ」(ISBNコード・書籍JANコード取得について)
平成26年 4月 7日、問い合わせ先等の変更
平成22年 4月 4日、頒布告知終了
平成21年11月14日、『水戸教導航空通信師団事件秘史 昭和の彰義隊の悲劇』正誤表掲載

平成21年11月 9日、『水戸教導航空通信師団事件秘史 昭和の彰義隊の悲劇』頒布案内掲載

平成21年10月 8日、『水戸教導航空通信師団事件秘史』等案内を改訂

平成21年 6月10日、『水戸教導航空通信師団事件秘史』目次(案)を掲載

平成21年 6月 9日、「宮城事件(8・15事件)の概念・構図」を追加、『川口放送所占拠事件秘史』正誤表更新

平成21年 2月17日、申込先変更

平成21年 1月25日、『川口放送所占拠事件秘史』初版正誤表に修正事項2項目を追加

平成20年 9月 6日、『水戸教導航空通信師団事件秘史』(仮題)予約受付け開始

平成20年 8月24日、「宮城事件(八・一五事件)」連載開始

平成20年 7月14日、『近衛師団参謀終戦秘史』第四版の修正箇所を追加

平成20年 7月13日、『川口放送所占拠事件秘史』の紹介を追加

平成20年 3月22日、第4版修正箇所1ヶ所追加、収蔵先にベルリン国立図書館を追加

平成19年12月 2日、一部改訂

平成19年 9月 8日、説明を改訂

平成19年 8月 4日、「水戸教導航空通信師団事件秘史」説明を改訂

平成19年 7月28日、「近衛師団参謀終戦秘史」説明を改訂

平成19年 7月26日、「近衛師団参謀終戦秘史」説明を改訂

平成19年 7月20日、「近衛師団参謀終戦秘史」説明を改訂

平成19年 7月 1日、「近衛師団参謀終戦秘史」詳細を追加

平成19年 5月12日、「近衛師団参謀終戦秘史」紹介を追加

平成19年 3月22日、改築工事開始

平成17年 1月24日、開設

 

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