陸軍大将東條英機閣下 |
はじめに 東條英機陸軍大将については、戦後永らく、「極東国際軍事裁判(東京裁判)」における「A級戦犯」というレッテル(ないしはその名称がイメージさせる悪い「印象」)が独り歩きしたこともあって、ナチスドイツのヒトラー総統と並ぶ「独裁者」であり、大東亜戦争の「戦争責任」の大部分が開戦当時総理大臣であり陸軍大臣であった東條大将にあるものと、漠然と一般的に認識されてきた様に思います。 この曖昧で不正確な認識は、未だ十分に克服されておりません。 総理大臣等として戦争指導に参画した以上、少なくともその在任間の行動についてその権限に応じた行政上の責任が在るのは否めませんし、その点は御本人も生前に明確に認めておられるところです。 しかし、これまで世間で言われてきたような様々な批判が果たして的を得たものであったのかどうかについては、客観的に見て大いに疑問があります。 平成20年12月24日夜、TBS系列局で放送されました『日米開戦と東条英機』(「東条」は誤り。「東條」が正しい。)は、そんな中にあって比較的客観的に論じていたものと感じられますが、まだ旧来の先入観から抜けきれていない場面や公正さを欠く証言等の垂れ流し等も多々見受けられました。 そこで、本項では、甚だ不十分ながらも、良いことは良い、悪いことは悪いとして、東條大将について簡潔ですが客観的に記してみたいと思います。 中には事実誤認や不適切な評言などがあるかも知れませんが、その場合はそれらについてご指摘・ご教授下されば幸いです。 誕生からドイツ駐在まで 東條英機陸軍大将は、今から120年前の明治17年(西暦1884年)12月30日、当時陸軍大学校第一期生であった東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と東條千歳の三男(二人の兄は夭折)として東京市麹町区隼町で誕生しました。 因みに「陸海軍将官人事総覧陸軍編」(芙蓉書房出版)」等諸資料で出身地が「岩手」とされているのは、東條大将の御令息である東條俊夫元空将補によりますと、次のような事情があったための様です。 本籍は既に東京に移していましたが父英教の故郷が岩手県であり、旧藩主南部伯爵家の御世話をしていた関係から、東條英機大将も後年岩手県人会に招かれてこれに出席していたそうです。 このため、東條大将は「岩手出身」であると言われていたそうです。 いわば周囲の勘違いといったところでしょうか。 東條大将の祖父東條錠之助英俊は、盛岡藩士として南部家に仕えていました。 父東條英教陸軍中将は、明治6年に陸軍教導団に入り、23歳で西南戦争に従軍、明治11年9月16日に少尉に任官しました。 陸軍大学校第一期生首席卒業の俊才で陸軍の知嚢を謳われました。 後に記した「戦術・麓の塵」という著作は初の戦術書と言われています。 日清戦争では大本営参謀としてドイツ留学で得た新しい知識を駆使して功績を挙げ、戦後は戦争の推移について「隔壁聴談」という戦史書を編纂し参謀本部に寄贈しました。 しかし、「隔壁聴談」の中で当時の政府の動きや山縣大将(戦争中、第一軍司令官)の言動や作戦指導等について率直な批判を記したために不興を買い、中央の参謀から一転して姫路の歩兵第八旅団長へ追いやられてしまいました。 日露戦争ではそのまま歩兵第八旅団長として出征しましたが、病気のために早く帰還して留守近衛歩兵第一旅団長に補せられました。 ついで歩兵第三十旅団長に補せられましたが、明治40年11月7日陸軍中将昇進と同時に後備役編入、大正2年12月26日歿。 享年59歳(数え年)でした。 東條英教中将は極めて優秀な軍人でしたが、その能力に比してあまり栄達を果たせず早くに後備役編入となったのは、当時陸軍部内で強力だった山縣大将を筆頭とする長州閥のためだと言われています。 このことは、後に東條英機大将の軍内派閥打倒の指向性につながっていったとも言われています。 さて、東條英機少年は、城北中学校から東京地方幼年学校に入り、陸軍中央幼年学校を経て明治37年6月陸軍士官学校に入校、翌38年3月陸軍士官学校を360人中10番の優秀な成績で卒業しました。 卒業後、見習士官として近衛歩兵第三聯隊に赴任、陸軍歩兵少尉任官は、同年4月21日です。 当初の補職は近衛歩兵第三聯隊補充隊附でしたが、日露戦争では第十五師団歩兵第五十九聯隊(宇都宮)の小隊長として出征しました。 明治38年7月東京出張、その後鉄嶺付近に駐屯、更に朝鮮守備黄海道海州に駐屯して警備に当たっていました。 明治40年、近衛歩兵第三聯隊附として原隊に復帰、同年12月21日に陸軍歩兵中尉に昇進しました。 明治42年4月11日、当時日本女子大学国文科の学生だった伊藤勝子(かつ子)と結婚、同44年には長男英隆が誕生しています。 大正元年、東條中尉は晴れて陸軍大学校に入校、大正3年(1914年)二男輝雄誕生、大正4年(1915年)6月に陸軍歩兵大尉に昇進して近衞歩兵第三聯隊中隊長に補せられました。 同年12月、陸軍大学校を卒業して陸軍省副官を拝命しました。 陸軍省勤務間、生真面目で律儀な性格が軍務に適していることを周囲の人々に印象づけたといいます。 そして、大正7年には長女・東條光枝(結婚後、杉山光枝)が誕生しています。 陸軍省での勤務成績が良好だったこともあり、大正8年7月25日にドイツ駐在発令。 スイスのチューリヒ、オーストリアのウィーンを経てドイツに入り、翌年8月ライプツィヒで陸軍歩兵少佐に昇進しました。 同年10月27日、南ドイツのバーデンバーデン(Baden-Baden)という保養地で欧州出張中の岡村寧次少佐を、スイス公使館付武官の永田鉄山少佐とロシア大使館付武官の小畑敏四郎少佐が迎えて、いわゆる「バーデンバーデンの会合」が開かれました。 3少佐とも陸士16期出身です。 翌日にはドイツ駐在中の東條英機少佐(陸士17期)も加わったとされます。 岡村少佐の日記によれば、この会合の席上、「派閥の解消、人事刷新、軍制改革、総動員態勢につき密約」がなされたとされています(ただし、この密約の内容は、後で岡村少佐が日記を捏造して書いたものだという説もあります。)。 東條少佐は、この当時もその後もずっと軍内部の派閥を心底から嫌っていました。 「天皇陛下の軍隊の中に派閥があってはならない。 それは私兵の思想だ。」との堅い信念によるものでした。 東條少佐は永田鉄山少佐(後に陸軍省軍務局長)の陸軍改革構想に共鳴し、永田少佐を心から尊敬していました。 そして、二人の親交は、その後もずっと続きました。 帰朝から聯隊長勤務まで ドイツ駐在武官を終えて帰朝後の大正11年11月、陸軍大学校兵学教官となり、翌年10月に、参謀本部部員と陸軍歩兵学校研究部部員の兼務を拝命しました。 同年、次女・東條満喜枝(はじめ近衛師団参謀古賀秀正陸軍少佐と結婚、古賀少佐自決後再婚して田村満喜枝)が誕生しています。 大正13年には陸軍歩兵中佐に昇進、翌大正14年には三男東條敏夫(通称「俊夫」、のち陸士59期生として陸軍士官学校在校中に終戦。 戦後、民間会社勤務を経て航空自衛隊に入隊し空将補で退官)が誕生しました。 大正15年3月23日、陸軍省軍務局軍事課高級課員を拝命、7日後には陸軍大学校兵学教官の兼務を命ぜられました。 昭和3年3月8日、東條中佐とつながりのあった永田鉄山大佐(当時)は、自分の後任として東條中佐を陸軍省整備局動員課長に据えています。 この在任中、東條課長はその持ち前の真面目さを発揮して永田前課長が描いた国家総動員体制構想に関して深く研究したと言われます。 同年8月、陸軍歩兵大佐に昇進。 翌昭和4年8月、東條大佐は歩兵第一聯隊長を拝命しました。 帝都駐屯の頭号聯隊の聯隊長になるということは陸軍将校にとって非常に名誉なことであり、実際それなりの然るべき人物がこの職に補されます。 余談ですが、歩兵第一聯隊の所在地は、戦後米軍による接収の後防衛庁が入り、数十年にわたり使用されてきましたが、市ヶ谷移転に伴い建物などは全て取り壊され現在高層ビル建設が予定されています。 ただし、営門と歩哨の哨所は市ヶ谷に移設され保存されています(遺跡遺構展示館を参照)。 歩一での東條聯隊長の有名なエピソードとして、次の様なものがあります。 例えば、私語をしている兵に対して、東條聯隊長は指揮下将兵の名前、年齢、出身地、成績まで全て事前に覚えていて、直に名前で「誰々、私語するな。」と指導していたと言います。 その他にも、聯隊内の栄養状況について深い関心を抱いた聯隊長は、毎晩密かにゴミ箱を開けて覗き込み、兵達が食事を残して密かに捨てている事実を知ると、炊事班長を呼びつけて「消化が良くておいしいものを作ってやれ。」と命じたと言います。 かなり「細かい」聯隊長と言うべきですが、その分兵達にとっては、自分達のことをよく気遣ってくれる聯隊長として大変人望があったといいます。 なお、聯隊長になった昭和4年、三女・東條幸枝(結婚後、鷹森幸枝)が誕生しています。 冷遇の時代 昭和6年8月1日、参謀本部総務部編制動員課長に就任、9月には陸軍通信学校研究部部員、陸軍自動車学校研究部部員の兼務を命ぜられました。 参謀本部の編制動員課長となったものの、この頃から軍部内での相剋が深まっていきました。 東條大佐は尊皇心旺盛であったのですが、荒木貞夫中将(当時)らのいわゆる「皇道派」と呼ばれる派閥には組みせずにいたために、昭和8年3月に陸軍少将となったものの参謀本部附となり、ここから暫くの間省部(陸軍省と参謀本部のこと)の要職から離れての勤務が続きました。 同年8月に陸軍兵器本廠附、軍事調査委員長を拝命、その後、陸軍省軍事調査部長、陸軍士官学校幹事を経て、昭和9年8月に福岡県久留米の第十二師団歩兵第二十四旅団長(隷下部隊は、大村の歩兵第四十六聯隊、久留米の第四十八聯隊)となり、九州に赴任しました。 東條少将にとっての国内地方勤務はこれが初めてです。 それまでの経歴から見て唐突な印象を受けるこの人事には、実は大きな背景がありました。 当時「陸軍三長官」の1つである教育総監であった真崎甚三郎陸軍大将は陸軍内で隠然たる勢力を持ち、何とか東條少将を予備役に編入したいと考え、自分の息のかかった香月清司陸軍中将(陸士14期、後に近衛師団長・第一軍司令官等を経て昭和13年7月29日予備役編入)が師団長を務める第十二師団隷下の歩兵旅団長に東條少将を就けて、その予備役編入の機会をうかがうことにしたのです。 なお、これまでの間、昭和7年に四女・東條君枝(結婚後、キミエ・ギルバートソン)が誕生しています。 予備役編入という目的のために旅団長に補任された東條少将でしたが、師団の「旅団対抗演習」の際に相手の旅団長を捕らえて捕虜にしてしまうという「戦果」をあげるなどしたため、予備役に追いやる合理的な口実がなかなか見つからず、東條少将をやめさせたい側の思い通りには進みませんでした。 この時、旅団参謀として東條旅団長を強力に補佐したのが、井本熊男陸軍歩兵大尉(陸士37期。後に大佐、大臣秘書官、第二総軍作戦課長、陸上自衛隊幹部学校長・陸将)でした。 しかし、旅団長になってから丁度1年後の昭和10年(1935年)8月1日、遂に東條少将は第十二師団司令部附を拝命しました。 地方部隊での「司令部附」という人事発令は、全部が全部そうであるというわけではありませんが、大体は予備役編入前の配置であり、次の人事異動期に待命、予備役編入となるのが一般的でした。 通常ですと、東條少将もこのまま事実上陸軍を去ることになってしまうところでした。 時代が生み出した上昇気流 ところが、第十二師団司令部附となってから11日後の昭和10年8月12日、荒木大将と並ぶ「皇道派」の領袖であった真崎教育総監の罷免(同年7月16日)に怒った相沢三郎中佐が、いわゆる「統制派」のリーダーと目されていた永田鉄山陸軍省軍務局長を、その執務室において軍刀で斬殺するという大事件が起きました。 当時久留米の日吉小学校4年生だった東條俊夫元空将補は、永田軍務局長斬殺の知らせを聞いた父東條少将の愕然とした表情をよく覚えておられるそうです。 東條少将がいかに強い衝撃を受けたかは想像に難くありません。 事件当日に永田局長が着用していた血染めの軍服は、東條少将が御遺族から御形見として頂戴し、長く東條家で大切に保管されていましたが、東條大将がお亡くなりになった後に東條かつ子夫人により御遺族に返却されたそうです。 なお、「統制派」とは、永田軍務局長をはじめとする軍内部の派閥解消や軍制改革を指向する人々の総称(俗称)であり、実際に派閥を形成していたというわけではありません。 東條英機少将もこの中に含まれますが、派閥の解消を主張していたこうした人々が、外部から見るとまるで派閥を形成しているかのような誤解を受けたのは、全く皮肉の限りだと言うべきでしょう。 この事件の翌日に人事異動があり、幼年学校時代からの同期生で東條少将と親しかった後宮(うしろく)淳少将が参謀本部第三部長から陸軍省人事局長に転じました。 この後宮人事局長の取り計らいで東條少将は予備役編入を免れ、昭和10年9月21日関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長に補されました。 ここで予備役編入とならず関東憲兵隊司令官に転じたのは、東條少将にとって極めて大きな分岐点であったと言えます。 因みに、この間の人事異動の事情について、終戦時の陸軍省人事局長であった額田坦(ぬかだひろし)中将は、戦後その著書「陸軍省人事局長の回想」(芙蓉書房出版)の中で「経緯は詳知していない。」と記しています。 東條少将が帝国陸軍史上に本格的に姿をあらわし頭角を発揮するのは、関東憲兵隊司令官として満洲国に赴任した時以降だと言えます。 特に、昭和11年2月26日に帝都東京で発生した「二・二六事件」は、決起した青年将校らとは立場を異とする東條少将らの人事上の上昇気流を生み出すこととなりました。 事件自体は、天皇陛下の「朕自ら近衛師団を率いて鎮圧せん。」との断固たる御意志の表明により、わずか4日後に鎮圧されました。 この事件の余波は非常に大きく、時の岡田啓介内閣は事件発生の責任を取って総辞職し、替わって広田弘毅内閣が成立しました。 しかし、戒厳令下の組閣であったこともあってか、軍に好意的な人物が多数入閣すると共に、陸海軍大臣を現役の大中将に限るとする「陸海軍大臣現役武官制」が復活されました。 これはすなわち、「大日本帝國憲法」最大の欠陥であると言われる「統帥権の独立」に基づき陸海軍が人事権を有する現役の大将・中将を内閣に入れなければ組閣が出来なくなってしまうという、まさに政府の命脈を握る大きな影響力を軍が有することを意味しています。 また、陸軍内部でも、川島義之陸相から替わった寺内寿一陸相が徹底的な「皇道派」粛清の粛軍人事を断行し、「皇道派」将校や、それに近い人々は次々と予備役に編入されました。 これにより、それまで人事的に「冷や飯」を食っていた「統制派」の軍人の勢力が伸張するに至ったと言われています。 東條少将も、関東憲兵司令官在任中の昭和11年12月1日に陸軍中将に昇進し、更に翌年3月1日には関東軍参謀長という要職に補されました。 この頃から、東條少将は、いわゆる「統制派」の後継者的存在となったと言われています。 参謀長となって満洲の実力者の一人と目されるようになった東條英機中将、星野直樹国務院総務長官、岸信介産業部次長(戦後、内閣総理大臣)、松岡洋右南満洲鉄道総裁、鮎川義介満洲重工業社長の5人は、実質的に満洲国を動かす実力者として「二キ三スケ」と呼ばれました。 関東軍参謀長在任中の昭和12年7月7日の「廬溝橋事件」を発端とする北支事変(のち、9月2日に「支那事変」に改称)勃発時には、「膺懲南京政府、親日地方政権樹立」を陸軍中央に上申したと言われます。 8月15日、蒋介石は「全国総動員令」を発して全面戦争の体制を整えたため、日本側もそれまでの不拡大方針を放棄しました。 これより先、8月上旬中国軍は察哈爾(チャハル)省に2コ師、河北・山西省境に3コ師、更に保定付近にも進出し、日本の支那駐屯軍(軍司令官は東條参謀長の元上司である香月中将)の側背を脅かしました。 そこで、参謀本部は、支那駐屯軍に対して南口の攻撃を、関東軍に対してこれの支援を命じました。 支那駐屯軍は、8月11日から独立混成第十一旅団、次いで内地から到着した第五師団(師団長は板垣征四郎中将)に攻撃を命じました。 関東軍では、参謀長東條英機中将を指揮官とする察哈爾(チャハル)兵団(通称「東條兵団」。歩兵3コ旅団基幹。)を派遣して作戦に協力させました。 察哈爾兵団は、8月27日(東條大将自筆の経歴書では24日)に張家口、9月13日に大同、24日に平地泉、10月14日に綏遠、そして17日には包頭を占領しました。 なお、最近筆者は、察哈爾作戦時に本来指揮権を有さない幕僚である参謀長が部隊を指揮して出陣したのは、「統帥権の干犯」であり「軍を私物化したもの」だ、という趣旨の批判記事を某所で見かけましたが、この点については、一応専門家の端くれである筆者から一言説明を加えておきたいと思います。 第一に押さえておかねばならないのは、幕僚(参謀)だからといって部隊を指揮することが制度上不可能なわけではないということです。 部隊の指揮権は当該部隊指揮官(本件の場合は関東軍司令官)にあるわけですが、この指揮官が幕僚を含む部下(ここでは東條参謀長)に指揮権の一部を命令で委任することにより、委任された者はその委任の範囲内において指揮官の権限を行使することが出来ます。 常識的に考えて、委任命令なしに大部隊を指揮・運用する(できる)ということはあり得ません。 当たり前のことですが、法的に権限のない者が指揮しようとしたところで隷下部隊長は動きはしません。 陸軍次官就任 第一次近衛文麿内閣が昭和13年(1938年)5月30日に行った人事改造で、板垣征四郎中将が陸相として入閣すると、軍政に疎い板垣の次官として東條中将が起用されました。 東條中将の陸軍次官就任の背景は概ね次のようなものであったと言われています。 ことの発端は、前年昭和12年7月に始まった「支那事変」にまで遡ります。 当初、それまでも大陸各地で散発していた局地的な小競り合い程度の認識しかなく、簡単に収束すると予測していた当時の近衛内閣や陸軍中央の予想を裏切って、事態はエスカレートしていきました。 やがて、近衛首相は、昭和13年初めに、「今後は蒋介石を対手とせず」という声明を出してしまいました。 近衛首相の狙いは、当時北支や中支に陸軍が作った地方政権によって事変を収拾しようというところにあったのですが、この目論見は外れ、かえって事態の収拾が困難となってしまいました。 さすがに近衛首相自身も失敗だったと認めざるを得なくなりました。 そこで、近衛首相としては、自分の失敗をどのように挽回してあらためて蒋介石の国民政府を対手として和平交渉の途を掴むかについて苦慮することになりました。 そこで近衛首相が考えたのは、先の問題となった声明に関与した当時の杉山陸軍大臣を辞めさせて内外の印象を良くすることでした。 昭和13年5月に行われた近衛内閣改造の本当の狙いは杉山陸相を罷免することにあったのです。 ところが、杉山陸相は簡単に辞めるとは言いませんでした。 困った近衛首相は、当時参謀総長であった閑院宮殿下に杉山大臣罷免の件を依頼しました。 閑院宮参謀総長はこれに応じ、結局、杉山陸相は渋々辞職を承諾しました。 次に近衛首相は、当時第五師団長として北支にいた板垣征四郎中将を後任の陸軍大臣に持ってくることを考えました。 ところが、この人事処置が今度は当時陸軍次官であった梅津美治郎を緊張させました。 梅津次官は陸士15期、板垣師団長は16期で後輩でした。 これはすなわち、後輩の板垣が大臣になれば先輩である自分は次官を当然辞めなければならなくなることを意味していました。 杉山将軍は、その茫洋とした外見に比べて内面は繊細な神経の持ち主で処世術に長けていましたが、この梅津もまた頭脳明敏でなかなかの策士でした。 この2人は、近衛首相がすべての面で扱いやすい板垣を大臣に据えて軍を自分の思い通りに動かすつもりだとみたようです。 この時、2人の頭に浮かんだのが当時関東軍参謀長として新京にいた東條中将でした。 律儀で真面目な東條中将なら板垣の脱線を止められるだろうと読んだのです。 この様にして、東條中将は板垣陸相の「目付役」として利用しようとする陸軍中央から呼び寄せられる格好で陸軍次官に任じられたのでした。 当時近衛首相は東條次官のことをよく知らなかったようであり、当時二人の間には後年のような確執はありませんでした。 東條中将はその高い行政能力を遺憾なく発揮し、「カミソリ東條」の異名を戴くことになります。 特に、兼務していた陸軍航空本部長として航空兵力の充実を図ったことは、ドイツがポーランドで史上初めて実施する「電撃作戦」(昭和14年9月)の前のことであり、特筆に値すると思います。 内閣総理大臣就任 その後、昭和15年に第二次近衛内閣に陸軍大臣として初入閣し、第三次内閣にも留任しました。 この間三国同盟締結、南部仏印進出を推進しました。 昭和16年(1941年)年1月には戦後に問題とされる「戦陣訓」を布達しています(ただし、実際は「戦陣訓」はそれほど軍にも民間にも普及せず、軍の人間でさえ戦後までその存在を知らない人も多数いました。 従って、「戦陣訓」が軍人や民間人の自決を増やした等の戦後の批判は、歴史的に見て適正な評価とは言えません。)。 当時日米交渉が、支那からの日本軍撤兵問題で難航していましたが、東條陸相はこれを拒絶し、近衛首相は内閣を投げ出して10月16日に総辞職しました。 東條中将が内閣総理大臣兼陸軍大臣兼内務大臣に任ぜられるのは、昭和16年10月18日です。 しかし、本人はその直前まで自分が首相となることなど予想もしていませんでした。 当初、近衛前首相は自分から投げ出した内閣の後継首班として、東久邇宮殿下を推したい考えであり、東條陸軍大臣もその意向に賛成していました。 しかし、当時内大臣として天皇の側近にあった木戸幸一内大臣は、万一の場合、皇族が和戦の決定を下さなければならなくなることをおそれて、東久邇宮による組閣に反対しました。 (またこれは天皇の意向でもありました。) そして、東條中将を総理大臣に推したのは他ならぬ木戸内大臣でした。 木戸内大臣は、「主戦派」の東條中将に戦争をさせない約束をさせておいて、日米交渉に尽力させる意図であったと言われています。 「東條なら開戦に逸る陸軍を抑えることができるかもしれないと思った。」と、木戸本人は戦後かなり経ってから朝日新聞のインタビューで述懐していますが、果たしてそれは真実を語ったものだったのでしょうか。 木戸内大臣から東條中将による組閣の案を聞いた天皇陛下は、「虎穴に入らずんば虎児を得ず、ということだね。」と答えられたといいます。 いずれにせよ、東條中将に大命が下ることになるその背景には、天皇陛下の東條中将に対する深い御信任があったことは間違いありません。 昭和16年10月17日、東條中将は皇居に参内する前、令夫人かつ子に対して、「今日、首を言い渡されるだろう。」と告げていたといいます。 しかし、参内した東條中将は組閣の大命を受けたのです。 自分に大命が降下したとき、東條中将は、ことの意外さにその場でしばし茫然となったといいます。 当時陸軍省軍務局軍事課長として東條中将の近くにいた佐藤賢了大佐(当時)は、参内を終えて陸相官邸に戻った東條中将の顔は緊張でこわばり、蒼白となっていた、という意味のことを書いています(文藝春秋新社「東條英機と太平洋戦争」昭和35年)。 このとき天皇陛下は、東條中将に対し、木戸内大臣を介していわゆる「白紙還元の御諚」を命じていました。 この「白紙還元」とは何のことかと言いますと、昭和16年9月6日の御前会議の席上、政府(近衛内閣)と大本営が対米英戦争決意の下に戦争準備を進めるいう内容の「帝國國策遂行要領」を決定したことについて、これを無かったことにして戦争回避に努めよという意味だったのです。皇居からの帰途、陸軍省に立ち寄った東條中将は、その旨をふれて廻ったといいます。 当時はどの軍人にとっても天皇陛下は絶対的存在でありその命じられるところは何があっても追求しなければならないものでありましたが、人一倍尊皇心旺盛であった東條中将にとってはなおさら重要なものであったはずです。 東條中将ほどの「忠臣」は他にいなかったと言えるでしょう。 翌18日、東條中将は陸軍大将に昇進し、内閣総理大臣兼陸軍大臣兼内務大臣となりました。 東條首相は陸相時代の強硬な「主戦派」から一転して「交渉派」に変わり、「日米不戦」の天皇陛下の御意志を体して努力を重ねました。 ところが、当時の参謀本部戦争指導班の「大本営機密戦争日誌」を見ると、「東條陸相が総理となるや、お上をうんぬんして決心を変更し、近衛と同様の態度をとるとはそもそも如何、東條陸相に節操ありや否や」等の記述が散見され、陸軍中央(海軍も大同小異でしたが)が天皇陛下やその意を受けた東條首相の意志や努力に反して開戦に躍起になっていたことがわかります。 また、開戦を指向していたのは軍だけではありませんでした。 現在は戦前と正反対の路線を進んでいる朝日新聞をはじめとするなど大新聞は、連日のように威勢のいい記事を書き続け、国民の好戦意識を煽っていました。 更に、帝國議会でさえ、ある代議士が「政府は何をはばかりおそれているのか?一日も早く開戦せよ。」と主張するなど、天皇陛下や東條首相の意図に反して、全体的に国を挙げて戦争へ突き進んでいく風潮にあったのです。 この辺の事情・状況を、戦後の日本人はあっさりと忘れてしまったのでしょうか。 大東亜戦争開戦 昭和16年月11月5日、御前会議で対英米開戦を決定しますが、それでもなお、東條首相は天皇陛下のご真意を反映して再度交渉のため、来栖三郎特使をアメリカに派遣しました。 開戦のほぼ1ヶ月前のことであり、ぎりぎりまで東條首相が戦争を回避しようと努力し続けたことがよくわかります。 ところが、このような日本側の必死の努力にもかかわらず、同年11月26日、米国のハル国務長官からいわゆる「ハル・ノート」が突きつけられることとなりました。 「ハルノート」とは、実質的な対日最後通牒であり、その内容は当時の日本にとって到底承服しがたい過酷極まりないものでした。(その概要は、@満洲の権益放棄、A支那からの全兵力撤収、B日独伊三国同盟の死文化の3つの要求が柱でした。) この米国の主権国家同士の外交とはとても思えない傲慢無礼な態度と要求を受けて、東條内閣で特に開戦反対の硬骨漢であった東郷茂徳外務大臣でさえ遂にサジを投げ、日本は昭和16年12月1日の御前会議でやむをえず開戦を決定しました。 まさに、米国により無理矢理開戦に追い込まれたわけです。 昭和16年(1941年)12月8日、日本は米英に宣戦布告して、ハワイ・マレー半島・フィリピン等を攻撃するに至りました。 当初の半年ほどはほとんど圧勝をおさめていました。 国内政治においては、昭和17年4月に衆議院翼賛総選挙を実施して翼賛政治会を確立すると、同年6月には官製国民運動6団体を翼賛会の傘下に編入、8月には部落会、町内会、隣組を翼賛会に組み込み、挙国一致の政治体制を完成させました。 しかし、昭和17年6月5日のミッドウェー海戦で海軍の誇る聯合艦隊が主力の航空母艦4隻(赤城・加賀・飛龍・蒼龍)と航空機約300機、そしてかけがえのない優秀な航空機搭乗員多数を失ってその海空戦闘力が一挙に減退、これを契機として太平洋方面では全般的に守勢に転じ、やがて海軍の無謀な飛行場建設に端を発するガダルカナル攻防戦でも大きな損害を出して敗退し、そのまま後退を重ねることとなりました。 ガダルカナル撤退の後、大本営は「絶対国防圏」を設定しました。 これは、これ以上は後退できないという要地を地図上の線で結んだ全長約1万3千キロにも及ぶ長大な「防衛線」で、地域としては、カムチャッカ半島南域からサイパン島を中心とするマリアナ諸島、カロリン諸島、西部ニューギニアのヘルビング湾、チモール島、スマトラ島、ベンガル湾、ビルマに至るものでした。 昭和18年11月1日、政府は大東亜省、軍需省、農商務省、運輸通信省を設置して官僚機構を統合再編、戦時行政特例法などで行政権を強化しました。 また、同年11月5〜6日の間、東京で「大東亜会議」が行われました。 この会議は、戦後は、「傀儡政権の集まり」だとか散々に言われていますが、アジアの諸国代表が史上初めて一堂に会する機会を持ったということは、歴史的に意義深いことだと言うべきでしょう。 それまでの白人優越の世界において、有色人種による国際会議が行われることなど想像もできなかったことだったのです。 11月5日午前10時、各国代表が議事堂の中の会議場に入場、大東亜会議は東條首相の代表演説から始まりました。 東條首相は、米英のアジア侵略の歴史をもとに、「洵(まこと)に米英両国の抱く世界制覇の野望こそは、人類の災厄、世界の禍根」とし、日本に対しても経済断交をもって屈従を迫ったので、自存自衛のため開戦のやむなきにいたった経緯を述べました。 そして「大東亜各国は正に其の自主独立をば尊重しつつ、全体として親和の関係を確立すべきもの」と「万邦共栄」の理想を謳いあげました。 アジアの有色人種が大同団結することを東條首相は心底喜んでいました。 東條首相が常時軍服のポケットに入れてあった「修養録」には、この会議で採択された「大東亜宣言」が記載されています。 軍がガダルカナル奪回に失敗し、戦局がどんどん悪化していくのを見て、東條首相は焦燥感を急速に募らせていたと言われます。 そのため、首相自身が具体的に直接指示したかどうかは別にして、東條政権は戦後になって「憲兵政治」等と揶揄されることになる厳しい政策をとるに至りました。 しかし、東條首相自身は大変真摯でした。 首相は時折下町の様子を自ら視察して、干してある洗濯物を手にとって、「まだ木綿だ、大丈夫。」とつぶやいたと言われます。 統帥権独立の弊害と参謀総長兼務 昭和19年2月、東條首相は、当時の参謀総長杉山大将を強引に説得して、自らが参謀総長を兼任するに至りました。 これは勿論陸軍史上前例のないことであり、このために重臣や海軍からも反発を買い、陸軍内部においても支持者を減らすことになりました。 細川護貞侯爵(近衛元首相の女婿、細川護煕元首相の父)などは、「東條が望むものは、道鏡の地位か。」と憤慨しています。 しかし、この細川侯爵の見解は完全に間違っています。 なぜならば、東條首相がこの様な周囲から横暴だととられることが分かりきっている挙にでたのかというと、それは私利私欲のためではなく、大東亜戦争に勝ちたいという一心からであったからです。 東條英機という人物には、私欲とか世間体などといった行動の足枷となるような感情があまり無く、純粋で、几帳面なほど真面目で一途な人物だったようです。 そういう人物でなければ、そもそも、当時も戦後も「暴挙」と批判されるような行動に敢えてでることなどあり得ないでしょう。 なお、東條首相がこの時期になぜ参謀総長を兼任しようとしたのかについては、東條首相の性格だけではなく、当時の行政・統帥システム上の致命的欠陥にも言及しなければなりません。 まず、当時は一般の行政権と陸海軍の統帥権とが全く別個の存在だったことを認識しなければなりません。 帝國陸海軍は現在の自衛隊とは異なり、天皇陛下(大元帥陛下)に直接隷属するものであって、行政(国務)に属する内閣総理大臣・陸軍大臣(陸軍大臣は人事・予算・制度等の「軍政」のみを所掌)といえども、軍令(作戦・部隊運用など)に関しては一切指揮権を持たなかったのです。 軍が行う作戦内容は勿論、その結果すら国務関係者には全く知らされませんでした。 東條元空将補のお話では、東條首相が所管事項を内奏の際、陛下から戦況等の統帥事項をそっとお教え頂いたとの事を仄聞した事があるそうです。 当時の東條首相兼陸相が置かれていた立場に立って見てみますと、次のようになります。 日本の軍事に関して自分でコントロールできるのは、陸軍の人事・予算・制度等に関する「軍政」事項だけであり、肝心の大本営陸海軍部の立てる作戦については何も関与できず、加えて海軍に関しては軍政事項さえも全く触れることができませんでした。 それまでの大本営の戦争指導をもどかしく見ていた東條首相は、このままだと戦争に勝てないと判断したのか、海軍のことは制度上如何ともし難いが、せめて陸軍だけは作戦面も掌握したいと考え、敢えて批判承知で参謀総長を兼任する決心をしたものです。 しかし、参謀総長を兼任したからといって、それでも海軍は全く掌握できないという状況であり、戦後に言われているような東條首相がヒトラーの様な「独裁者」だったという見方は、全く無知で不見識なものだと言わなければなりません。 東條首相には、ヒトラーどころか敵国である米国大統領ほどの権限さえなかったのです。 「東條=独裁者」というイメージは、戦後の極東国際軍事裁判により作り上げられた(と言うよりデッチ上げられた)虚構に過ぎません。 現在、御令息である東條元空将補の御手元に、戦時中東條大将が記録していたメモ(いわゆる「東條メモ」)が1冊だけ残っています。 それは昭和18年2月23日から同年9月11日に至る限られた期間のものではありますが、そのうち5月21日の記事には、『政府と統帥部との関係に就いて』との記事があり、その中には「組閣当初より苦心を払いたる最大のもの…」とか、「政務の施行中最も頭を悩めしはこの点にして、時には“ 堪えられず”と密かに感じたる場合もなしとせざりき。」との記載があります。 また、巣鴨拘置所で東條大将がしたためた膨大な資料も保管されていますが、その中に、『統帥と 国務との関係に就いて』と題する一文があり、この文面からは、統帥と国務との間で如何に心労 したかが推察できます。 この本文の最後に「日本に於ては、国防及用兵行為即ち統帥行為の本体は、制度上政府の政治的責任外に独立して存在し、統帥機関其の責任に任ず。 故に諸外国の観念を以てすれば、帝國には二重政府の存在となる。」と書いてあります。 東條元将補は、「現在の総理大臣と異なり、統帥権に触れることは勿論、閣僚の任免権すら持っていなかった当時の総理大臣・陸軍大臣たりし父にとって、陸海空三軍の最高指揮官をも兼ねる米国大統領の軽快な政略・戦略を相手にして、さぞや口惜しい思いだったろうと推察しています。 この状況を多少でも好転させたいと考えた手段が参謀総長兼任という方法だったと思います。 父の遺書の後段に、『最後に軍事的問題について一言する。 我国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。 あれでは陸海軍一本の行動は採れない。』とだけ簡単に書いてありますが、統帥権問題が父の最大の難問だったと思います。」 と述べておられます。 倒閣工作と内閣総辞職 昭和17年6月11日、米軍艦載機による猛爆撃によりサイパン島上陸作戦が開始され、激戦の後、海軍中部方面太平洋艦隊(長官は南雲忠一海軍中将)と第四十三師団(師団長は斎藤義次陸軍中将)等の守備隊は敢闘むなしく玉砕しました。 これは、先に設定した「絶対国防圏」の重要な一角が突き崩されたことを意味し、更にはサイパンと日本本土との距離が新型長距離爆撃機B29の航続圏内に入ったことから、米軍にとっては日本本土空襲が容易になりました。 かくして戦局が悪化すると、それまで東條首相を支持していた重臣(当時の「重臣」とは、主に首相経験者のことを差し、具体的には若槻礼次郎、平沼騏一郎、岡田啓介、近衛文麿等のこと)や陸海軍内部に批判勢力が起こり、嶋田海相も海軍で孤立感を深めると、重臣・海軍・政治家・在野勢力などに反東條の協力体制ができ、暗殺計画やクーデター計画等が相次ぎ、倒閣工作が行われるようになりました。 特に、近衛元首相は、昭和19年4月頃、東久邇宮殿下に対して、「このまま東條大将に政局を担当させておく方が良い。戦局は誰に替わっても好転することはないのであるから、ヒトラーと共に世界の憎まれ者となっている東條大将に最後まで全責任を負わせるようにしておいたら良い。」という趣旨の発言をしたといいます。 この言葉にこそ、近衛元首相のみならず、東條首相にすべての戦争責任を押しつけて自分たちは逃れようとする重臣達やその他勢力の本音がよく現れているのではないかと思われます。 一般的には、戦後天皇陛下に累が及ばないようにするために、敢えて東條首相に責任を押しつけたのだと解釈されている様ですが、仮にそういう狙いがあったにせよ、果たしてそれが全てだったのでしょうか。 昭和19年7月18日、東條大将は依頼により参謀総長を免じられ、22日には、サイパン陥落等の責任と、重臣工作により東條大将を自ら強く推挙したはずの木戸内大臣が反東條に廻ったことによって内閣総辞職に至りました。 同日附で免本官並びに免兼官となり、即日予備役編入となりました。 この時の重臣達の東條内閣打倒の口実は、連合国との「和平促進」ということにあったのですが、後継首班を決める重臣会議においてそのことは少しも論じられず、むしろ徹底抗戦を口にする人が多くいました。 東條内閣を倒したものの、国家の政策を転換させる見通しなど立つわけもなく、紆余曲折の末、当時朝鮮総督であった小磯國昭陸軍大将(予備役)が選ばれました。 しかし、天皇陛下は元々小磯大将とその内閣をあまり信頼しておられなかったといいます。 天皇陛下の御信任 東條内閣は一般に不人気であったと言われますが、それにもかかわらずこの政権が長く続いたのは、東條首相に対する天皇陛下の御信任が極めて厚かったためだと言われています。 東條大将は前述のとおり元々尊皇の心に満ちていた人物でしたが、首相の当時も政務・軍務の要点は細大漏らさず上奏しました。 また、陛下の御下問には誠心誠意をもって御答えしました。 歴代の首相や参謀総長等の表面的かつ形式的で要領を得ない上奏や奏答に苛立ちを感じておられた陛下が、誠実な東條大将に好意を抱き信頼するのは当然の帰結だと言えるでしょう。 天皇陛下は、高松宮殿下や三笠宮殿下のような直宮(じきみや)の進言を受け付けないほど東條大将を信頼しておられたといいます。 重臣達が東條内閣を倒閣しようとした原因の一つがここにもあると考えられます。 この様な天皇陛下の御信任に関して、東條元将補は次のように記しておられます(要旨)。 「我が家の夕食は家族一緒に食卓を囲むのが常で、時に秘書官方も御一緒することも間々あった。 家族の前で公事を口にする父では無かったが、食後屡々秘書官方に「心掛け」等を話すことがあった。 私が強い印象を受けたのは次の話だった。 『私が頻繁に天皇陛下に内奏申し上げるのを諸君は不思議がっている様だが、この様に考えるからだ。 陛下に内奏申し上げると色々とご下問がある。 勿論十分研究し尽くして内奏申し上げているから、その場ですぐ奉答申し上げるが、それでも尚御疑問をお持ちの様に感じたら、更に研究・確認して再度でも再々度でも奉答せねばならぬと考えているからである。 急ぐとか何とかこちらの都合によって少しでも御疑問をお持ちのまま勅許を仰ぐことは出来ない。 若しその様な事をすれば、それは幕府政治と何等変わらない。 「天皇御親政」とは、こうしたものだと思う。』と。 其の時秘書官の方から、「閣下が内奏に上がると、陛下からすぐ“お椅子を賜 う”そうですネ。」との話があったが、ゆっくりと話が聞きたいとの思召しだったのだろうか。」 「父は参謀総長退任に当たり、畏くも天皇陛下から御嘉賞の勅語を賜っています。 この勅語は前述の修養録に書き写されています。 参謀総長退任ニ当リ賜りタル勅語(昭和19年7月20日午前10時20分) 『卿、参謀総長トシテ至難ナル戦局ノ下、朕ガ帷幄ノ枢機ニ参劃シ、古ルク其任ニ膺レリ、今其職ヲ解クニ臨ミ、茲ニ卿ノ勳績ト勤労ヲ惟ヒ、朕深ク之ヲ嘉ス。 時局ハ愈々重大ナリ。 卿益々軍務ニ精励シ、以テ朕カ信倚ニ副ハムコトヲ期セヨ。』」 「父が巣鴨で書いた日記があります。 その昭和22年2月7日(金)の記事に、『穂積弁護士ヲ通ジ、聖上ノ御言葉ヲ拝ス。 死シテ恨ナシ。』との記載があります。 残念乍ら、御言葉の内容についての記載は無いものの、父が「死シテ恨ナシ」と書いていることから、優握な御言葉を賜った事は十分想像出来ます。 日頃尊崇申し上げていた天皇陛下からの御言葉を頂いた父はさぞ満足し、感謝申し上げたことでしょう。」 予備役編入後 東條前首相は、予備役となってからは世田谷用賀の自邸で過ごす時間が長くなり、重臣会議等に出かける以外は外出することもめっきり少なくなったと言います。 東條内閣は連合国との「和平促進」のために倒されたはずだったにもかかわらず、その後も戦争は延々と継続され、人的物的損害は加速度的に増加し、戦局はどうしようもないくらい悪化していきました。 海軍が誇った聯合艦隊は相次ぐ損害のため実質的に消滅し、燃料不足等の為まともに動く艦艇はほとんどない状況になりました。 また、陸軍も、支那派遣軍などはまだまだ健在でしたが、精強を誇った関東軍は部隊の南方転用が続いたため戦闘力が極度に低下し、ビルマ方面軍は「インパール作戦」で大損害を出して攻撃力を喪失、太平洋方面の各部隊も悲惨な状況にあり、海軍に引きずられて広大な地域に分散・配置された各部隊が十分な補給も得られないまま死闘を繰り広げ、次々と玉砕ないし壊滅していきました。 この間も、確かに東條大将は重臣会議などの席上強気の発言を繰り返していましたが、それは陸軍大将という立場上そう発言せざるを得なかったものと思われます。 重臣に列しているとはいえ、実質上戦争指導にほとんど関与できず、明らかに敗戦へと向かっていく状況を見ていなければならなかった東條大将の心情は察するにあまりあります。 そして、昭和20年8月14日、遂に日本は「ポツダム宣言」を受諾するに至り、やがて北方領土など一部を除いて、帝國陸海軍の火砲は沈黙することになりました。 新たなる戦場「極東国際軍事裁判」 「極東国際軍事裁判」とは、第二次世界大戦後に戦勝国である米国を中心としてドイツのニュールンベルクと日本の東京市ヶ谷で行われた「国際軍事裁判」(これらはとても「裁判」と呼べるものではなく、「裁判」に名を借りた戦勝国による一方的かつ野蛮な「国際公開リンチ」とでも呼ぶべきものですので、じ後「 」で括ってこの用語を使用します。)のうち東京で行われたものをいい、通称「東京裁判」とも呼ばれます。 この「極東国際軍事裁判」は、大東亜戦争停戦後、日本の戦前・戦中の戦争指導者28人(昭和天皇は結局訴追されませんでした。)を「A級戦犯」(政府・軍部首脳が対象)として審理したもので、「ポツダム宣言」第10項の戦犯処罰規程を根拠に、11カ国の連合国名によって「平和に対する罪」、「殺人と通例の戦争犯罪」及び「人道に対する罪」の3つに分類された55項目の訴因に基づく起訴状により、昭和21年4月29日(嫌がらせのつもりなのか、当時の天長節=天皇誕生日にわざと日程を設定しています。こうした事例はこの後他にも何回も出てきます。)に起訴されました。 この「法廷」は起訴直後の5月3日に開廷され、2年6カ月後の昭和23年11月12日(開廷から判決まで924日間)に「刑」が宣告されました。 判事(裁判官)は、戦勝国11カ国から1名ずつ任命され、オーストラリアのウェッブ判事が裁判長に選任されました。 なお、この「裁判」に公正さがないことの一つの表れとして、スイスなどの中立国からは1人も裁判官が選ばれなかったことも挙げられると思います。 キーナン首席検事以下の国際検事団に対して、弁護団は鵜沢総明(うざわ・ふさあき、後に明治大学総長に就任)が弁護団長に、清瀬一郎が副団長となりました。 連合国を代表して日本占領の最高責任者(=支配者)として日本へやってきた米陸軍元帥ダグラス・マッカーサーは、進駐初日に「東條を逮捕せよ。そしてその他のA級戦犯のリストを作成せよ。」という口頭命令をCIC(対敵諜報部)のソープ准将に下達したといいます。 この命令は、「ポツダム宣言」第10項の戦犯処罰規定に基づき発せられたものでしたが、命ぜられた側の准将は当初とまどったといいます。 なぜならば、少なくとも当時の国際法における戦争犯罪とは、捕虜や非戦闘員に対する虐待(まさに現在一部の米軍将兵がイラク人に対しておこなっていることそのものなのですが。)などに代表されるものであって、新たに連合国が後付けで考え出した「平和に対する罪」とか「人道に対する罪」といった法的概念は存在しないからでした。 そこで准将は、A級戦犯の定義を「戦争を自らの政治活動の道具にしたと考えられる者」と決め、早速戦犯リストの作成を指示しました。 当然ながら、はじめは資料も乏しく、仕方がないので開戦当時の人事興信録を参考にしたといいますから、相当いい加減なものでした。 小泉親彦元厚生大臣(陸軍軍医中将)や橋田邦彦元文部大臣(生理学者)など、恐らく不起訴になったと思われる人まで「A級戦犯」に指名され、その結果自決してしまいました。 連鎖反応を恐れたGHQは、これ以降日本側に事前通告して出頭させ拘留する方法に切り替えました。 しかし、最初の逮捕者である東條大将の場合はそうではありませんでした。 昭和20年9月11日、戦犯容疑者として、占領軍当局から「A級戦犯」の指定を受けていた東條大将は、東京世田谷の自宅を突然予告なしに現れたCIC隊員やMP約20名に取り囲まれました。 東條大将は米兵を外で待たせ、その隙に拳銃で自決を図りましたが、弾がわずかに急所を逸れて失敗してしまいました。 その前日、東條大将は当時の陸軍大臣下村定大将に呼ばれました。 下村陸相は、東條大将が戦犯に指名された場合自決する覚悟でいることを部下の陸軍省高級副官美山要蔵大佐(陸士35期)から聞き、美山大佐の意見具申を受け入れて自決をやめるよう説得しようとしたのでした。 そして二人は約2時間にわたり、大臣室で話し合いました。 しかし、東條大将の決意は堅かったので、美山大佐は後日再度下村陸相から説得してもらうつもりでいました。 ところが、下村陸相は多忙を極めていて、そのまま機会を逸していたところ、突然の逮捕劇となったものです。 当時の政府としては、誰かを犠牲にしてでも「法廷」に立ってもらい、大東亜戦争が自衛のため、道義のための戦争であったことを主張してもらう必要を強く感じていたのです。 そして、その役には東條大将が最も適任であることは客観的に見ても明らかでした。 しかし、9月11日、前述のとおり東條大将は自決を図るのでした。 前日9月10日付で東條大将がしたためた遺書は、逮捕当日現場で押収されたまま行方不明になっていたのですが、その原文コピーが米国立公文書館で見つかり平成10年12月にマスコミで報道されました。 その遺書には、「大東亜戦争モ遂ニ今日ノ如キ不詳ノ結果ニ陥リ」、「開戦当時ノ責任者トシテ深ク其ノ責任ヲ痛感スル處ニシテ茲ニ自決シ其ノ責ヲ」、「帝国ノ正シキ行為ハ将来ノ歴史ニ依リ決スルモノナリト信ズ。勝者ノ裁判ニ決スルモノニアラズト信ズ。敵側引渡ノ要求ニ対シテハ他ニ自ラ途アルベシ」などと、明確に自決の意思が書かれていました。 東條大将の「自決未遂事件」は当時話題となり、武人にあるまじき失態として非難の的になりました。 国中あげて東條大将ひとりに敗戦の罪を擦り付ける風潮さえ生まれました。 昭和21年春からの「裁判」に出廷した東條大将は、何かふっきれたかのように淡々としていました。 しかし、東條大将は戦勝国によるこの「裁判」の本質をしっかりと掴んでいて、最初から死刑になるのを覚悟で戦いました。 自分を有利にするための弁護側証人は最後まで一人も申請しませんでした。 キーナン首席検事は、冒頭陳述で、「東京裁判は世界を破滅から救うための文明の闘争である。」と位置付けました。 この時点で既に検察側の主張がリーガルマインドから遠くかけ離れた抽象的で曖昧模糊としたものであることがよくわかりますが、これに対して弁護側は、「平和に対する罪」とか「人道に対する罪」へと勝手に拡大された戦争犯罪の概念が国際法上まったく未確立な上、そもそも「日本には侵略する意図はなく、満州事変から大東亜戦争にいたる戦争はすべて自衛のための戦争である。」という法的にも歴史的にも公明正大な正論をもって反論し、検察側と激しく対立しました。 ブルーエット弁護人が丸二日かけて読み上げた東條大将の宣誓供述書は、本格的に政治の表舞台に立った陸軍大臣在職時代から始まり、日米交渉、首相就任と開戦決定の経緯、ビルマ・フィリピンの独立、大東亜会議の開催へと続く事柄を、史実に照らしてもかなり正確に、156項目にわたり包み隠さずに述べていきました。 勿論、内外情勢についての見通しの甘さはあるでしょうが、当時日本が置かれた立場を理解していれば、実に堂々たる供述でありました。 その後、東條大将は、そもそも大部分の裁判官が極度に偏向している中、キーナン主席検事らと堂々たる戦いを繰り広げました。 傍聴券を入手できなかった判決公判を除いて約2年半の公判のほとんどを傍聴した富士信夫元海軍少佐は、著書「私が見た東京裁判」(講談社学術文庫)の中で、東條大将とキーナン検事のやり取りについて、「カミソリ東条いまだ衰えず。」と評しています。 当時、オーストラリア人のウエッブ裁判長をはじめとして、イギリスやソ連などから、天皇陛下の戦争責任追及を要求する声がまだ高かったのですが、それをキーナン主席検事とのやり取りの中で、東條大将が「責任は我にあり」という証言をしたことは、天皇陛下が訴追を免れるのに決定的な効果をもたらしました。 「A級戦犯」として起訴された28人中、裁判途中で死亡(松岡洋右元外務大臣、永野修身元元帥海軍大将)、病気免訴(大川周明)となった3人を除いて、25人の被告全員が「有罪」となり(55の訴因中10の訴因を認め、満州事変から大東亜戦争にいたる日本の軍事行動を「侵略戦争」と断定し、被告の多くに「侵略戦争の共同謀議」を認定しました。)、その内絞首刑7人(東条英機元首相、板垣征四郎陸軍大将、土肥原賢二陸軍大将、松井石根陸軍大将、木村兵太郎陸軍大将、武藤章陸軍中将、広田弘毅元首相)、終身禁固16人、禁固20年 1人、禁固7年1人でありました。 判決は多数決によりましたが、少数意見の裁判官が5人いました。 そのうちの1人であるウエッブ裁判長は、「どの日本人被告も、侵略戦争を遂行する謀議をしたこと、この戦争を計画及び準備したこと、開始したこと、または遂行したことについて、死刑を宣告されるべきではない。」と判決文にしたため、フランスのベルナール判事は、「天皇が免責された以上共犯たる被告を裁くことができるのか。」と述べました。 中でも、インドのパール判事は、日本の「無罪」を主張し、アメリカの原爆投下を非難しました。 判決後、弁護側は、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥に対して再審を申し立てますが却下され、直ちにアメリカ連邦最高裁に訴願しましたが、これも却下されました。 そして、昭和23年12月23日、皇太子殿下(現在の今上天皇)の誕生日に死刑が執行されました。 享年64歳。 辞世は、「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん國に酬ゆることの足らねば」でした。 「死刑」が執行されたその場所は、現在、東池袋中央公園となっており慰霊碑が建立されています。 起訴されなかった「A級戦犯」容疑者に対する第2次起訴が当初予定されていましたが、米ソ冷戦構造の激化で見送られました。 戦犯容疑で収監され最後(昭和23年12月24日)まで未決勾留されていたのは、後に総理大臣となり、日米安保条約改定(60年安保)を行った岸信介、ロッキード事件で病床尋問された児玉誉士夫、笹川良一、後藤文夫、天羽(あもう)英二、須磨弥吉郎ら17人(このうち、岸・児玉両氏は第2次のA級戦犯として起訴が予定されていました。)。 また出頭を命じられた「A級戦犯」容疑者は100人を上回りました(杉山元元第一総軍司令官、小泉親彦元厚生大臣、近衛文麿元首相らは出頭を拒否して自決しました。)。 また、「極東国際軍事裁判」で有期・無期の禁固刑に処せられた「A級戦犯」18名のうち、獄中で病死した梅津美治郎・白鳥敏夫・東郷茂徳・小磯国昭の4氏以外の人たちも相次いで仮釈放の形で出所、昭和33年4月の連合国通達により刑が免除されました。 結局彼らは、昭和23年11月に「終身・有期禁固刑」に処されながら、10年も経たない内に出所したことになります。 かたや絞首刑、かたや早期釈放という形になったわけで、如何に連合国側が一貫性のない、いい加減極まりない対応をしたのかがよくわかります。 その後、「A級戦犯」として「絞首刑」になった東條大将ら7人をはじめ14人は、昭和53年10月から靖國神社に「昭和受難者」として合祀されました。 また、意外と知られていないことですが、東条大将ら「絞首刑」になった7人については、国内法では「刑死」ではなく「公務死」の扱いになっており、昭和26年以降、遺族は、国内法による遺族年金または恩給の支給対象にもなっています。 禁固7年とされた重光葵元外務大臣は、戦後、鳩山内閣の副総理兼外相となりました。 また、終身刑とされた賀屋興宣元大蔵大臣は、池田内閣の法務大臣を務めています。 このことからも、「極東国際軍事裁判」について、日本国政府が何らの権威も正当性も公式かつ完全に認めていなかったことがよくわかります。 おわりに 東條大将は、「極東国際軍事裁判」の宣誓供述書の最後をこう締め括っていました。 この文章にはすべてが集約されているように思いますので最後に紹介させていただきたいと思います。 「戦争が国際法上から見て正しき戦争であったか否かの問題と、戦争の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異なった問題であります。 第一の問題は外国との問題であり且法律的性質の問題であります。 私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。 私は未だ嘗て我が国が本戦争をなしたことを以て国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、又敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的の国際法上の犯人なり、又条約の違反者なりとして糾弾せられたるとは考へたことはありませぬ。 第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。 この意味における責任は私は之を受託するのみならず衷心より進んで之を負荷せんとすることを希望するものであります。」 大日本帝國陸海軍史料館運営委員会 |
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