北 清 事 変

(義和団の乱)

1 大陸の情勢

 
  19世紀後半欧米列強の進出によって清国は事あるごとにその威信を失墜させ人心が動揺宮廷では守旧派と進歩派に分かれて抗争していた かつては「眠れる獅子」と呼ばれていた清国も日清戦争に敗れて弱点を暴露してからは更なる列強の激しい威圧を受けるようになっていた
 
  宮廷内には列強の進出に反発して極端な排外攘夷思想をとる守旧派と変法自強策を唱える康有為(こう・ゆうい)らの進歩派があったが守旧派の西太后が進歩派を抑え政治の主導権を掌握した
 
  このような情勢下の明治33(1900)年5月初旬宗教的・政治的結社である「義和団」がキリスト教徒との紛争に端を発して蜂起した 西太后らは密かにこれを支持する態度をとったので「扶清滅洋」を主張する義和団は力を得て遂に列国の公使館を襲撃するに至った
 
  同年6月11日には日本公使館書記生が6月20日にはドイツ公使がそれぞれ殺害され更に6月17日には太沽(たーくー)にあった清国正規軍が列国艦隊に攻撃を加えた 列国はそれぞれに陸戦隊等を派遣して公使館や居留民の護衛に当てていたが6月21日には列国と清国政府との間に宣戦が布告された

2 北清事変の経過

 
  義和団の乱が激しくなった頃列国公使は近海にある艦隊から護衛兵を北京に呼び寄せた 明治33年6月3日には列国の陸戦隊合計約440名が北京に到着し公使館区域の警備に当たった。 ついで6月10日列国の陸戦隊約2,000名(うち日本兵は52名)がイギリス海軍中将セーモアーの指揮で天津から北京に向かったが途中鉄道を破壊されて前進できず6月26日天津に帰還した この間に、列国艦隊は協力して太沽砲台を占領した。
 
  日本政府は事態の進展に鑑み、6月16日以来福島安正陸軍少将指揮の臨時派遣隊(第五師団と第十一師団の一部)を編成して太沽に向かわせついで第五師団を動員して出動させた
 
  臨時派遣隊は6月29日から逐次天津に到着したがロシア・イギリス・フランス・アメリカ等の増援部隊も逐次到着し7月11日には総勢約14,000名に達した 列国部隊は協力して天津城を攻撃し7月14日占領して城内を掃討した
 
  8月3日天津において列国指揮官会議を開きすみやかに公使館区域に立てこもっている列国公使らを救出するため連合軍を編成し北京を攻撃することにした
 
  連合軍は日本の山口素臣中将が指揮官となり日本軍(13,000)イギリス軍(5,800)アメリカ軍(3,800)ロシア軍(8,000)フランス軍(2,000)ドイツ軍(450)イタリア軍(100)オーストリア軍(150)の8カ国の部隊で編成され総兵力約33,000となった 日本軍は全兵力の約40%を担当したが戦闘においても常に困難な任務を引き受けて勇戦した。 特にその規律の厳正さは共に戦った列国軍のみならず敵となった清国軍にも感銘を与えたと言われている
 
  連合軍は8月5日行動開始14日には北京城を攻撃して城内に入り5月20日以来3ヶ月にわたって籠城していた公使館区域の救出に成功した

3 北清事変の終結

 
  明治33年8月15日清国政府は北京を脱出して西安に逃れた 10月17日から列国と清国との間に正式に講和交渉が始められたが交渉間に露清密約が暴露されるなどの紛糾が続き翌明治34年(1901)9月7日になってようやく講和が成立した
なお北京占領後の明治33年10月17日にはドイツ陸軍元帥ワルデルゼーが北京に到着して連合軍指揮官となったが米・仏2国軍はその指揮下に入らなかった
 
  講和条約により清国は列国に対して賠償金4億5千万両(テール)を1902年から1940年の間に5期に分割して支払うことを約束した 清国政府は明治35年(1902)1月北京に還り同年5月31日に連合軍総司令部は解散した
北京救援が遅れたのも講和交渉が長引いたのも列国の利害の不一致から意見がまとまらなかったのが主たる要因であり連合作戦の困難さの一端を現したものといえるだろう
 
【補 足】
 
  これより先まだ事変が発生したばかりの明治33年6月初旬、少数の清国兵がブラゴベシチェンスクに進入した事件を契機にロシアは同地の清国人5千名を殺害し(アムール河畔ブラゴベの虐殺)更に7月には東清鉄道の防衛を口実として大軍を送り込み満州全土を占領してしまった この態勢を背景にして11月には露清密約を結び更に明治34年になって第2の密約を結ぼうとしたが今度は日英の反対にあって頓挫した

4 北清事変の影響

 
  日清戦争と北清事変の相次ぐ敗北による清国の弱体化は辺境地域に真空状態を生じロシア帝国の勢力の満州侵入を容易にしてしまった
 
  ロシアによる満州占領が既成事実になってしまうことは英国にとっても日本にとっても看過し得ないことであった ここに将来の日英同盟と日露戦争が更に一歩近づく原因があった またこの北清事変に参戦し、欧米列強と協同してみて、日本人は自らの能力の高さに更に自信を持つようになった

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