1 開戦の経緯
- 大正3(1914)年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子夫妻が、ボスニア州首都サラエボにおいて、セルビア系青年に暗殺される事件が起こった。 これを契機に、オーストリアは、同年7月28日、セルビアに「最後通牒」を送り、それが拒絶されると宣戦を布告した。
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ロシア帝国は、バルカン半島における優位確保を目的に、「スラブ系セルビアの救援」を理由として、と同時に、早晩ドイツ帝国との対決を回避できないものと判断して、7月30日までに全軍に動員を下令した。
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これに対して、ドイツは、8月1日動員を下令するとともに、ロシアに宣戦を布告した。更に、対露仏2正面作戦の計画に基づいて、まず 西方決戦を実施するため、8月3日フランスに対して宣戦を布告しベルギーに侵攻した。 フランスは一連の事態に対応するため、8月1日動員を下令して態勢を整えた。 イギリスもまた、ドイツのベルギーの中立侵犯を理由として、8月4日対ドイツ宣戦布告をし、フランスへ派遣軍を送り始めた。
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日本と「日英同盟」を結んでいたイギリスは、8月7日、日本に対して、東シナ海で活動するドイツ海軍巡洋艦の撃破を依頼してきた。 これを受けた日本は、ドイツに対して、@膠州湾の軍備撤廃、A膠州湾の艦隊退去、B中国への還付を目的とする膠州湾租借地の日本への交付を要求したが拒絶され、8月23日、宣戦を布告した。 膠州湾は、ドイツが明治30年(1897)に武力占領し、翌年に租借権を獲得、青島要塞を建設し、ドイツ東洋艦隊の根拠地として、中国に対する勢力扶植の基地となっていたものである。
この膠州湾について、当時の日本は特別の感情を抱いていた。 かつて日本は日清戦争の結果遼東半島を獲得したが、ロシア・ドイツ・フランスの「三国干渉」により、当時の清国に還付した。 しかも、それから数年を出ないうちに、ロシアは遼東半島を占領し、ドイツは膠州湾を占領したのである。 遼東半島については、日露戦争の結果日本が再び手中にしたが、膠州湾はまだドイツが保持していたのである。 (なお、ドイツはこの他に南洋諸島を領有していた。)
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