日清戦争後の陸軍の拡充

1 軍 制

(1) 要 旨

  日清戦争に勝利し、大陸へ進出しようとした日本は、ロシア・ドイツ・フランスの「三国干渉」に遭遇し、完全にその前進を阻止された。 そのため、軍備の重要性を認識した政府も国民も、「臥薪嘗胆」の言葉のもとに軍備の拡充に努めた。 この結果、日露開戦までに急速にこれを達成することができた。

(2) 編 制

  ア 増 師

  明治28年(1895)、第7〜第12師団の6コ師団を新設する案が帝国議会において可決され、翌明治29年に「軍備拡充計画」が作成されて増師に着手、7年後の明治36年に目標は達成された。 その結果、帝国陸軍は、13コ師団(近衛師団を含む)、2コ騎兵旅団、2コ砲兵旅団、1コ鉄道大隊及び台湾守備隊等という編制となった。 当時の師団及び歩兵聯隊の配置は次のとおりである。
 
第1師団(東京): 歩1(東京)、歩2(佐倉)、歩3(東京)、歩15(高崎)
 
第2師団(仙台): 歩4(仙台)、歩16(新発田)、歩29(仙台)、歩30(村松)
 
第3師団(名古屋): 歩6(名古屋)、歩18(豊橋)、歩33(名古屋)、歩34(静岡)
 
第4師団(大阪): 歩8(大阪)、歩9(大津)、歩37(大阪)、歩38(京都)
 
第5師団(広島): 歩11(広島)、歩21(浜田)、歩41(福山)、歩42(山口)
 
第6師団(熊本): 歩13(熊本)、歩23(熊本)、歩45(鹿児島)、歩48(久留米)
 
第7師団(旭川): 歩25(札幌)、歩26(旭川)、歩27(旭川)、歩28(旭川)
 
第8師団(弘前): 歩5(青森)、歩17(秋田)、歩31(弘前)、歩32(山形)
 
第9師団(金沢): 歩7(金沢)、歩19(敦賀)、歩35(金沢)、歩36(鯖江)
 
第10師団(姫路): 歩10(姫路)、歩20(福知山)、歩39(姫路)、歩40(鳥取)
 
第11師団(善通寺): 歩12(丸亀)、歩22(松山)、歩43(善通寺)、歩44(高知)
 
第12師団(小倉): 歩14(小倉)、歩24(福岡)、歩46(大村)、歩47(小倉)
 
イ 装 備
 
 小銃は、歩兵・工兵が30年式歩兵銃、騎兵・輜重兵が30年式騎銃、後備兵は村田銃を装備した。
 火砲は、砲兵の主体が31年式速射砲、31年式速射山砲で、後備は旧式の7サンチ野砲・山砲であり、いずれも砲身後座式ではなく射撃の都度砲自体が反動で後退するので、いちいち元の位置に人力で復旧させる必要があった。
 機関銃は、日露戦争前から研究中であったが、開戦には間に合わず、戦争の途中から実戦投入された。 ホチキス三脚架機関砲は師団機関砲隊に、繋架機関砲は騎兵第1・第2旅団に装備された。(なお、当時は機関銃のことを「機関砲」と称していた。)
 

ウ 諸兵科

   
   (ア) 歩 兵
 
  2コ歩兵聯隊をもって1コ旅団とした。すなわち、1コ師団は2コ歩兵旅団(4コ聯隊)を有していた。
   
   (イ) 騎 兵
 
  歩兵聯隊の編成の優先、日本の地形の特性、在来種日本馬が小型だったこと等から、騎兵部隊の編成や充足は遅れがちであったが、日露戦争の前に、ロシアのコサック騎兵に対抗するために2コ騎兵旅団が編成された。
  1コ騎兵旅団: 2コ騎兵聯隊×4コ中隊×4コ小隊及び繋架機関砲隊
  また、各師団には、捜索(偵察)を主任務とする3コ中隊編成の騎兵大隊があった。
 
   (ウ) 砲 兵
 
  師団の砲兵聯隊は、2コ大隊×3コ中隊編成で、各中隊6門を装備していた(聯隊合計35門)。ちなみに、ロシア軍の師団砲兵は48〜64門を装備していたので、日本軍の野戦砲兵火力はかなり劣っていた。 中隊6門編成としたのは、砲が後座式ではないため単位時間あたりの発射弾数が少ないのを補うためと、中隊長の指揮の難易の両者を勘案して定められたという。 なお、当時は、直協砲兵の思想が未成熟で、そのため、直協任務や全般任務等の任務区分もなかった。
   
   (エ) 工 兵
 
  師団工兵大隊は、3コ中隊×3コ小隊だった。 日露戦争当時は軍直轄の工兵部隊はなかった。 後方地区の築城にあたるため臨時築城班が編成されたが、これは企画や作業指揮・指導に当たる幹部だけの組織であり、実際の現場作業は所在の兵力・労務者・現地人等によった。
   
   (オ) 輜重(しちょう)兵
   
     a 輜重の区分
   
      (a) 兵站輜重
   
      (b) 師団輜重
   
      (c) 行李(隊属輜重)
   
       ・ 小行李・・・・・戦闘間に必要な資材
       ・ 大行李・・・・・宿営・給養に必要な資材
     
     b 輜重輸卒制度
 
   輜重・行李を編成するため、輸卒制度が採用された。すなわち、一般現役兵は3年在営であったが、輸卒は4ヶ月弱の教育期間であった。 階級的には兵の最下位(二等卒)と同じ扱いで、しかもその後の進級の途もなかった。 当時、「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々・トンボも鳥のうち。電信柱に花が咲く。」などと歌われたのはこのような事情からである。 後に大東亜戦争で前線の将兵を苦しめることになる日本軍の”兵站軽視”の思想は、この時からすでに深く根付いていたと思われる。
  エ 平時編制の制定
 
  明治29年2月、将来の軍備拡張に備え、軍備の程度及び編制上の秘密を守るために秘密取扱の陸軍平時編制が制定され、3月31日には更に平時編制が制定され、全国の平時兵力は近衛師団及び12コ師団となった。これに伴い、6月8日に陸軍定員令は廃止された。
 

2 軍政・軍令

(1) 戦時大本営条例の改正

  明治26年に制定された「大本営条例」は”陸主海従的”なものであって、これを陸海軍対等なものに改正すべきとの意見が海軍から出されたのは明治32年1月のことであった。 それによると、「戦時における陸海軍大作戦の計画は参謀総長の任」となっているのを、「特命を受けた将官」としていた。
 
  この意見を出したのは山本権兵衛海軍大臣であったが、桂太郎陸軍大臣の容認するところとはならず、また山県有朋首相も不同意であった。 そこで、山本海相はその意見を10月26日に明治天皇に上奏した。 これに対し、桂陸相もまた海軍の意見に不同意の理由を上奏し、両者は真っ向から対立した。 
 
  明治天皇は、この対立意見に対し、しばらくそのままにしておくようにと御裁可にならなかった。
 
  しかし、日露の関係の険悪化に伴い、この問題をそのまま放置しておくことができず、陸海両当局協議の結果、陸軍側が譲歩すると共に、軍事参議院条例を創設することにより問題が解決し、明治36年12月、「戦時大本営条例」が改正された。

(2) 軍事参議院条例の制定

  「戦時大本営条例」の改正で、参謀総長と軍令部長の権限が同等となったので、陸海軍協同の実をあげるため、従来の「軍事参議官条例」を廃止して、新たに「軍事参議院条例」が制定された。
 
  軍事参議院は、帷幄(いあく)の下重要な軍務の諮詢(しじゅん)に応ずるものであり、従来の陸海軍事機関の合同会議のようなものとはその性格を異にするものであった。 軍事参議院は、議長、参議官、幹事長及び幹事からなり、参議官には元帥・陸海各大臣・陸軍参謀総長・海軍軍令部長及び軍事参議官に親補された陸海軍将官が充てられた。

(3) 3都督部の設置

  明治29年8月10日、「都督部条例」が制定され、東部(東京)、中部(大阪)及び西部(小倉)の3都督を置いた。 各都督は天皇に直隷し、所管内の防御計画及び各師団の協同作戦の計画に任じ、各師団の動員計画の整否を監視するとともに、各師団の教育を斉一に進歩させる責任を有した。 すなわち、軍令事項と共に教育も兼ね行うことになっていた。

(4) 元帥府の新設

  明治31年1月19日、「元帥府条例」が制定され、老巧卓抜の陸海軍大将を簡選し、最高軍務の輔翼に当たらせることになった。 最初にこの元帥府に列せられたのは次の4名であった。
 
 陸軍大将 正二位 勲一等 功二級 侯爵 山県有朋
 
 陸軍大将       大勲位 功二級     小松宮彰仁親王
 
 陸軍大将 正二位 勲一等 功一級 侯爵 大山 巌
 
 海軍大将 正二位 勲一等 功一級 侯爵 西郷従道

(5) 防務条例改正と東京防御総督部条例廃止

  明治32年、海軍は「戦時大本営条例」改正意見と共に、「防務条例」の改正意見を合わせて打ち出してきた。 その要点は、28年制定の条例で帝都防御における陸海軍協同作戦の指揮を東京防御総督(陸軍大将・中将)の任としていたのを、東京湾口方面の防御を独立させて横須賀鎮守府司令長官の任とすることにあった。
 
  じ後、陸海両相が協議を重ねて、34年1月22日の海軍の意見を反映させて「防務条例」が改正され、これにともない同年4月に東京防御総督部条例が廃止された。

(6) 兵器行政

明治29年 ● 軍馬補充署を軍馬補充部と改称
       
        ● 砲兵工廠生徒舎を砲兵工科学校と改称
 
明治30年 ● 陸軍兵器廠条例を制定し、東京・大阪・門司・台北に砲兵本廠を置く。

              砲兵支署及び武庫は砲兵支廠またはその出張所と改称する。

            ● 陸軍省軍務局に兵器課を新設し、兵器に関する全般の業務を統括することになる。

            ● 熱田に兵器製造所を新設

明治31年 ● 30年式小銃を制定(原型はドイツのモーゼル連発銃)

            ● 無煙薬採用

明治32年 ● 31年式速射砲砲・速射山砲(有坂砲)制式化
 
明治33年 ● 兵器監部を新設し、これまで本省直轄の砲兵本廠の統轄をさせることにした。

            ● 軍務局兵器課を廃止し、兵器に関する業務は砲兵課の所轄とする

明治35年 ● 保式(ホチキス)機関銃制定
 
明治36年 ● 砲兵会議・工兵会議を合わせて陸軍技術審査部を設置し、研究審査を促進することにした。

            ● 陸軍火薬研究所設立

            ● 兵器廠条例改正。東京に本廠を置く。

              従来の砲兵本廠・支廠・出張所は整理改編し、兵器支廠及び出張所に改めた。

明治37年 ● 鉄道軍事供用令
 
明治38年 ● 31年式クルップ野砲を改修し、38式野砲を制定した。

(7) 要塞等の整備

明治28年 ● 防務条例=横須賀・呉・佐世保の3軍港、紀淡・芸予・関門の各海峡及び対馬・朝鮮の両水道等を防衛のため、陸海軍協同作戦の指揮及び任務の関係を律した。
        
        ●東京防御総督部
 
明治30年 ●築城部を設け、広島湾・芸予・佐世保・舞鶴・長崎・函館の諸要塞の築城に着手
 
明治31年 ●沖縄警備隊司令部
 
明治32年 ●軍機保護法、要塞地帯法
 
明治33年 ●基隆要塞・澎湖島要塞建設に着手
 
明治34年 ●澎湖島・馬公を要港に定める。
 
明治37年 ●海面防御令
 
        ●臨時築城団を設け、鎮海湾・永興湾・大連・旅順の要塞建設に着手
 

3 教育訓練

(1) 教育機関の整備

  明治31年1月20日、「監軍部条例」が廃止されて「教育総監部条例」が制定され、陸軍全般の教育は陸軍大臣がこれを統括することに改められた。 教育総監は、陸軍大臣の管轄下に教育に関する諸条規・典令範の改良を図り、陸軍諸学校及び将校生徒試験委員等を管轄するとともに、総監部に騎兵・工兵・砲兵・輜重兵の各兵監部を置き、各兵監は当該兵科の教育上専門の事項について斉一進歩の責に任ずることになった。 これに伴い、従来の都督は教育に関しては監軍の監督下にあったが、爾後陸軍大臣の監督下に置かれることになった。
 
  次いで、明治33年4月24日、「教育総監部条例」は根本的に改正され、教育総監は天皇に直隷し、陸軍全般の教育の斉一進歩を企画することになり、また3都督部のうち東京のみを残し、参謀本部と密に連携して戦時を主眼とする国防用兵に専念するように改められた。
 
  この結果、教育総監の権限は大きく拡大し、軍政、軍令、教育の3つが鼎立(ていりつ)することになった。

(2) 操典の改正

  教育訓練の組織・機関の整備充実と相まって、対ロシア戦を前提とした教育訓練が進められた。 明治31年には、日清戦争の体験と連発銃の採用に関連して、各兵科の操典が改正された。 しかし、この時の改正は、それほど大きいものではなかった。
 
建軍以来作成された主要な教範類を列挙すると次のとおりである。
 
明治3年 ● 砲兵操典巻ノ三 歩砲小隊学ノ部(兵学寮)
 
明治4年 ● 砲兵操典巻ノ一 教導基本ノ部
 
       ●   同   巻ノ二 歩砲生兵学ノ部
 
       ● 砲熕使用巻ノ一 野砲ノ部
 
       ●   同   巻ノ二 山砲ノ部
 
明治5年 ● 砲兵操典巻ノ四 歩砲大隊学ノ部
 
       ●   同   巻ノ五 馬車練法ノ部、砲手練法ノ部、砲隊練法ノ部
 
明治6年 ● 陸軍敬礼式
 
明治7年 ● 生兵概則、歩兵訓練概則
 
明治8年 ● 生兵概則を各兵共通のものに改正
 
       ● 砲兵陣中必携
 
明治9年 ● 砲兵内務書、砲兵射的演習規則
 
明治13年● 砲兵操典第一篇、砲兵操典第二篇(陸軍省)
 
明治14年●   同   第三篇(徒歩中隊の部、徒歩中隊連合ノ部)
 
明治15年●   同   第三篇(乗馬生兵ノ部)
 
       ●   同    同 (乗馬小隊ノ部)
 
       ●   同   第四篇(克虜伯砲熕操法ノ部)
 
       ● 野外演習規範第一版
 
明治16年● 砲兵操典第五篇(繋駕馭法ノ部、繋駕小隊ノ部、同中隊ノ部、同連隊ノ部、鋼砲取扱概則)
 
明治17年●   同   第六篇(山綫砲駄馬繋駕小隊ノ部、同中隊ノ部)
 
明治18年●   同   第七篇(七糎山砲砲熕操法ノ部)
 
       ●   同   第一篇及び第二篇(徒歩教練ノ部)改
 
明治19年●   同   七珊米野砲(鋼銅底装)操法ノ部
 
明治20年● 陸軍礼式
 
       ● 軍隊教育順次令
 
       ● 砲兵操典、野砲操法改正ノ部
 
明治21年● 野戦砲兵戦時職務ノ部
 
       ● 砲兵操典:野砲繋駕教練ノ部、山砲操法ノ部、山砲繋駕教練ノ部
 
       ● 陣中軌範第一版草案
 
明治22年● 砲兵野戦教範草案 全(砲兵射的学校)
 
明治23年● 要塞砲兵操典、要塞砲兵射撃教範、要塞砲兵照準教範
 
明治24年● 野外要務令
 
       ● 野戦砲兵操典改
 
       ● 要塞砲兵観測教範、要塞砲兵要務書
 
明治25年● 射撃教範改
 
明治31年● 野戦砲兵操典改
 
明治33年● 野戦砲兵操典草案、要塞砲兵操典改
 
明治34年● 野戦築城教範草案
 
明治36年● 野戦要務令及諸勤務令
 
       ● 野戦砲兵操典改、野戦砲兵射撃教範

旧戦史室記事閲覧コーナーに戻る