山東出兵

1 昭和2年の山東出兵

 (1) 出兵の要因

   辛亥革命によって清朝が倒れた後の中華民国では、孫文(そん・ぶん)、袁世凱(えん・せいがい)が世を去った後、安国軍総司令張作霖(ちょう・さくりん)を首領とする北方勢力と、北伐軍総司令蒋介石(しょう・かいせき)を代表する南方勢力とが、それぞれ地方軍閥を傘下におさめて勢力拡張を図って対抗していた。
 
   大正15年(1926年)、蒋介石は北伐軍を率いて湖南、江西省に進入し、昭和2年(1927年)1月には淅江省(せっこうしょう)の孫傳芳軍を破って上海に迫った。
 
   張作霖は、孫軍援助のため張宗昌軍を揚子江以南に進出させるとともに、奉天軍主力を京漢線沿いに河南省に進入させた。5月、この軍は北上した武漢軍と衝突したが、陝西(せんせい)、甘粛(かんしゅく)省方面にあった憑玉祥軍が黄河上流から右側背に迫ったため、主力を新郷付近に集結し、黄河を挟んで憑軍と対抗した。
 
   蒋介石軍は、孫・張連合軍の反撃にあってひとまず揚子江南岸に後退した。昭和2年5月中旬、蒋介石は北伐を再興し、主力をもって津浦(しんぽ)線沿いに北上を始め、次第に孫・張連合軍を圧迫して5月下旬には山東省南境に接近した。中国の内戦は、いよいよ山東省にも波及しようとする状況になってきたのである。
 
   北伐軍の属する南方革命派は、孫文以来共産党と提携していたが、その主張する不平等条約の是正・国権回復運動は、国民各層の共鳴するところとなり、各地に排外運動を引き起こした。昭和2年3月下旬、張軍を追撃して北伐軍が南京に入ったときには、いわゆる「南京事件」が発生した。
 
   「南京事件」とは、昭和2年(1927年)3月24日朝、広東から北京に向かう途中の北伐軍(国民政府軍。総司令:蒋介石)が南京に入城した際に発生した事件で、南京の日本領事は、外務大臣幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)の平和協調外交方針に従い武装を撤去して居留民を領事館内に集め保護していたが、北伐軍兵士200余名が武力侵入し、領事以下多数の日本人に対して徹底的な凌辱暴行・略奪を行ったものである。一説では、この事件を仕組んだのは北伐軍に潜入した共産党員で、蒋介石を難局に立たせて失脚させようとしたコミンテルンの指令によって行われたともいう。
 
   日本艦隊は、米英等の艦隊とともに出動し、領事等の救出にあたった。

 (2) 出兵の経過

   日本政府は、中国内戦に対する不干渉を方針とし、南京事件に際しても艦隊による領事館員救出にとどめた。しかしながら、北伐の進行に伴って張作霖ら北方軍の形勢が不利となり、戦乱が山東に及ぼうとするにあたり、多くの居留民を有する山東の現地保護を行うことに方針を変更した。
 
   この結果、済南及び膠済(こうさい)鉄道沿線の居留民保護のため、5月28日歩兵第33旅団を青島に派遣した。ついで、膠済鉄道沿線の情勢が悪化してきたので、第33旅団主力を済南に前進させ、第10師団長の指揮する歩兵第8旅団基幹の部隊を青島に上陸させた。
 
   ところが、8月上旬、徐州付近の戦闘で北伐軍が敗れて後退し、戦雲が遠ざかったため8月末に部隊を撤収させた。
 
   この出兵は、幸い流血事件にはならなかったが、出兵自体が中国の国民感情を悪化させた。しかし、列強にとっては、北支の権益や居留民の保護について効果があったものとして感謝されるような空気もあった。

2 昭和3年の山東出兵(済南事変)

   昭和2年(1927)年8月、中途にして北伐に失敗した蒋介石は、昭和3年4月に北伐を再開、山東は再び戦火に荒らされる危機に瀕した。日本政府は、とりあえず支那駐屯軍から歩兵3コ中隊を済南に派遣し、更に内地から第6師団を山東に派遣した。
 
   4月25日以降、青島に上陸を開始した第6師団は、逐次膠済鉄道沿線及び済南に部隊を配置した。済南においては、商埠地の大部分を警戒区域とし、防御施設を構築して警戒した。
 
   5月1日、国民政府軍が済南に入城した。規律は厳正で、南京事件のような暴挙が発生する様子は見えなかった。そこで、日本軍は、いたずらに防備を厳しくするのはかえって排日の口実を与え、援北拒南の疑念を増幅し、国民政府軍を刺激するばかりと判断、5月3日、自主的に防御工事を撤去した。
 
   ところが、無防備になった日本軍警備地域内に入った国民政府軍と日本軍警備兵との間に衝突が起こり、これが瞬時にして商埠地全域に拡大した。第6師団長と国民政府軍の指揮官は、ともに事態の収拾を図り、停戦に努力したが、命令はなかなか徹底しなかった。3日夕方、ようやく国民政府軍が商埠地外へ撤収することに協定が成立し、4日午後実行された。
 
   しかし、国民政府軍約4万は、商埠地に近い済南城内及び近傍に集結し、しきりに排日的気勢を示していたし、また惨殺された日本人男女の死体が発見されるという事件も起こった。
 
   第6師団長は、国民政府軍総司令に対して軍事交渉を求めた。5月7日には、要求に応じない場合日本軍は実力行使する旨を伝えたが、誠意ある回答を得ずとして、8日商埠地周辺の国民政府軍を駆逐し、11日早朝には済南城を占領した。これは、済南事変と呼ばれる武力紛争であった。
 
   日本側は、6月5日新たに第3師団を派遣し、その他の部隊を帰還させた。また、その後の日中交渉の結果、昭和4年(1929年)5月、第3師団を内地に帰還させた。

(平成10年9月16日)


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