支 那 事 変

3 蘆溝橋事件

1 蘆溝橋事件

   7月7日夜、北平(後の北京)から約5キロ南西に駐屯する豊臺部隊の一部(支那駐屯歩兵第一聯隊第三大隊第八中隊)が蘆溝橋附近で演習を実施中、龍王廟附近の中国軍既設陣地方向から射撃を受けたのに端を発して、翌8日朝、蘆溝橋附近の日中両軍は交戦状態にはいった。  当時の状況を、『支那駐屯歩兵第一聯隊戦闘詳報』から抜粋すると下記のとおりである。  なお、〔緑文字〕は筆者注記。

  第八中隊〔支那駐屯歩兵第一聯隊第三大隊第八中隊。 中隊長清水節郎大尉。 陸士36期〕ハ 七月七日午後七時三十分ヨリ夜間演習ヲ実施シ 龍王廟附近ヨリ東方大瓦窰ニ向ヒ「敵主陣地ニ対シ薄暮ヲ利用シテ行フ接敵」 次テ「黎明突撃動作」ヲ演練セリ   而シテ該中隊長カ特ニ龍王廟ヲ背ニシテ東面シテ演習ヲ実施シタルハ予テ龍王廟附近ニハ夜間支那兵配兵シアルヲ知リ其誤解ヲ避ケンカ為ナリ   右演習中該中隊ハ午後十時四十分頃龍王廟附近ノ支那軍ノ既設陣地ヨリ突如数発ノ射撃ヲ受ク   此ニ於テ中隊長ハ直ニ演習ヲ中止シ集合喇叭ヲ吹奏ス  然ルニ再ヒ蘆溝橋城〔宛平県城〕壁方向ヨリ十数発ノ射撃ヲ受ク

  此ノ間中隊長ハ大瓦窰西方「トウチカ」附近ニ中隊ヲ集結セシム   然ルニ兵一名不在ナルヲ知リ応戦ノ準備ヲ為シツツ伝令ヲ派シテ在豊臺大隊長〔第三大隊長一木清直少佐。 陸士28期〕ニ急報ス

  大隊長ハ正子稍前官舎ニ在リテ第八中隊ノ報告ニ接シ直ニ出動スルニ決シ 非常呼集ヲ命スルト共ニ聯隊長〔牟田口廉也大佐。陸士22期〕ニ報告ス

  当時北平警備司令官河邉少将〔河邉正三少将。陸士19期〕ハ支那駐屯歩兵第二聯隊ノ中隊教練検閲視察ノ為 南大寺(秦皇島西方)ノ野営地ニ出張不在ナリシヲ以テ聯隊長之ヲ代理シアリ   聯隊長ハ七月七日正子前後 突如トシテ第三大隊長一木少佐ヨリ事件ノ概要ト豊臺駐屯隊ハ直ニ出動善処セントノ電話報告ヲ受ケタルヲ以テ直ニ之ニ同意シ 現地ニ急行シ戦闘準備ヲ整ヘタル後 蘆溝橋城内ニ在ル営長ヲ呼出シ交渉スヘキヲ命令セリ

  七月八日午前二時 聯隊長ハ聯隊附森田中佐〔森田徹中佐。陸士23期〕ヲ現地ニ派遣シ之カ調査並支那側責任者ニ対シ謝罪ヲ要求スル如ク命シタリ   之カ為ニハ慎重ニ事ヲ処スルト共ニ必要ニ応シ断乎タル処置ニ出テ得ル姿勢ニ於テ交渉スルヲ適当トスルヲ以テ 歩兵約一中隊、機関銃一小隊ヲ冀察〔「冀」は河北省の、「察」は察哈爾省の別称〕側調停委員ト同時ニ蘆溝橋東門内ニ進入セシメ 第三大隊ノ主力ヲ蘆溝橋停車場西南側附近ニ集結シ 何時ニテモ戦闘ヲ開始シ得ルノ姿勢ニ在ルヲ可トスル旨指示スル所アリタリ

  午前三時 特務機関員寺平大尉〔寺平忠輔大尉。陸士35期〕ハ宛平県長王冷齋、外交委員林耕宇ヲ伴ヒ聯隊本部ニ来ル

  〔以下、冀察側が真に事件を現地解決する熱意があるかどうかが疑問だったので王冷齋の資格をただした件及び森田中佐派遣の理由(つまり、北平警備司令官代理たる牟田口聯隊長は北平を離れられないこと等)−略〕

  情況切迫シテ一刻ノ猶予ヲ許サス 即チ森田中佐ヲシテ速ニ彼等ヲ帯同シテ一文字山ニ到ラシム   時ニ午前四時ナリ

  当時第一大隊ノ大部ハ 中隊教練演習ノ為通州ニ廠営中ナリシヲ以テ 速ニ之ヲ北平東郊朝陽門外ニ在ル射撃場附近ニ集結セシメ 爾後豊臺ニ向フ如ク命令セリ

  聯隊長ハ午前四時稍過キ第三大隊長ヨリ電話ヲ以テ次ノ報告ニ接ス  「午前三時二十五分 龍王廟方向ニテ三発ノ銃声ヲ聞ク  支那軍カ二回モ発砲スルハ純然タル対敵行為ナリト認ム  如何ニスヘキヤ」

  茲ニ於テ聯隊長ハ熟考ノ後支那軍カ二回迄モ射撃スルハ純然タル敵対行為ナリ  断乎戦闘ヲ開始シテ可ナリト命令セリ  時正ニ午前四時二十分ナリ

  此ニ於テ第三大隊長ハ支那軍攻撃ニ関スル決意ヲ堅メ一文字山〔「一文字山」の名称は俗称〕ニ向フ途中 第二十九軍顧問タル櫻井少佐〔櫻井徳太郎少佐。30期〕ト西五里店〔蘆溝橋東方約1800m〕西方本道東側畑地ニ於テ会見シ左ノ件ヲ知ル

(一) 櫻井少佐カ馮治安〔秦徳純の誤り。以下同じ。〕ト会見シ蘆溝橋不法射撃ヲ訊シタル処 馮曰ハク「馮ノ部下ハ絶対ニ蘆溝橋城外ニ配兵セス  支那軍ニ非サルヘシ」ト

(二) 城外ニ配兵セラレアリトセハ 攻撃ハ随意ニシテ恐ラクハ馮ノ部下ニアラサルヘシ  又馮ノ部下トスルモ城外ニアラハ断乎攻撃シテ可ナラン  馮ハ「城外ニ居ルトセハ其レハ匪賊ナラント附言セリ」ト

  右ハ全ク馮治安ノ欺弁ナリ  即チ責任ヲ回避セントスル支那要人ノ常套手段ニシテ心事ノ陋劣唾棄スヘキモノアリ

  右櫻井少佐トノ会見ニヨリ大隊ハ城外配兵部隊ニ対シ攻撃スルニ決シ所要ノ兵力ヲ展開シ攻撃セントセリ  然ルニ当時現場ニ到着シタル森田中佐ハ北平出発ニ当リ聯隊長ヨリ指示セラレタル所ニ基キ兵力ヲ部署シテ交渉ヲ行ハントシ大隊ノ攻撃ヲ中止セシメントシ将ニ射撃セントスル歩兵砲ノ射撃ヲ中止セシメタリ  大隊長ハ如斯交渉ハ徒ニ時間ヲ要スヘキヲ慮リ展開ノママ前進ヲ中止シ一般ニ朝食ヲ為サシム  此ノ時我ノ前進ヲ停止シタルヲ以テ怯懦ト誤リ龍王廟附近ノ支那軍再ヒ射撃ヲ為ス  於是大隊ハ最早議論ノ余地ナク之ヲ膺懲セントシ直ニ攻撃前進ヲ命シタリ  森田中佐亦本状況ニ於テハ攻撃ノ外無キヲ知リ大隊長ノ処置ヲ是認セリ  時正ニ午前五時三十分ナリ

  第三大隊ノ攻撃ハ平時演習ノ如ク進捗シ約十五分ノ後龍王廟附近ノ支那軍ヲ撃滅シ永定河右岸〔右岸とは上流から下流を向いて右側を言うので、この場合は永定河西岸。〕ニ進出セリ

  聯隊長ハ午前九時二十五分下達ノ命令ヲ以テ森田中佐ヲシテ出動部隊ヲ指揮セシメ 蘆溝橋支那軍ニ対シ永定河右岸ニ撤退ヲ要求シ要スレハ武装ヲ解除スヘシト命ス

 

2 最初の実弾射撃は誰がおこなったか?

   蘆溝橋事件の概要は前述の『戦闘詳報』のとおりであるが、現場の細部状況について、第八中隊長清水大尉は手記の中で次のように述べている。

  前段の演習を終り、明朝黎明時まで休憩(野宿)するため、私は各小隊長、仮設敵司令に伝令をもって演習中止、集合の命令を伝達させた。 私が立ってその集合状況を見ていると、にわかに仮設敵の軽機関銃が射撃をはじめた〔これは言うまでもなく空砲である。〕。 演習中止になったのを知らず伝令を見つけて射っているのだろうとみていると突如後方〔龍王廟堤防の方向〕から数発の小銃射撃を受け、確に実弾だと直感した。 しかるにわが仮設敵はこれに気付かぬらしく依然空砲射撃を続けている。 そこで急ぎ集合喇叭を吹奏させると、再び右後方鉄道橋に近い堤防方向から十数発の射撃を受けた。 その前後に振り返ってみると、蘆溝橋城壁と堤防上に懐中電灯らしいものが明滅するのが認められた。

   また、一木大隊長は、「偕行社記事」昭和13年9号、昭和16年7号で、「中国兵が疑心暗鬼の結果か、あるいは計画的な示唆により、わが演習部隊に発砲し挑戦してきた。」と述べている。

   上記状況についての関係者の証言は一致している。 すなわち、

   @ 実弾は、龍王廟堤防方向から飛んできた。

   A その龍王廟堤防の陣地に中国兵が配置されていることは、7日夕、第八中隊が演習を開始する前に将兵が確認している。

   B 更に、清水中隊長は、8日2時過ぎ、一木大隊長と会合した後、堤防陣地の偵察及び不法射撃の生証人とするための捕虜獲得の目的をもって斥候となり、当該陣地を偵察したが、その際、終夜中国兵が堤防上の警備についていたことを確認した。

   C 8日朝、第三大隊は龍王廟一帯を占領し、附近の中国軍正規兵の死体を点検した。

   以上の明確な証拠から、第八中隊に向けて実弾射撃をしたのが第二十九軍の中国兵(ただし、状況から推定すると人数は多くても数名と思われる。)であることは間違いない。

   この事件について意見が分かれているのは、なぜ中国兵が射撃を行ったのかという点である。  この点について、当時北平大使館附武官輔佐官であった今井武夫少佐は、次のように述べている。

  最初の射撃は中国兵による偶発的なものか、計画的なもの、あるいは陰謀、この陰謀は日本軍による謀略、または中共〔中国共産党のこと〕あるいは先鋭な抗日分子による謀略だとなす説がある。 これについて色々調査したが、その放火者が何者であるかは今もって判定できぬ謎である。 ただし私の調査結果では絶対に日本軍がやったとは思わない。 単純な偶発とする見方−恐怖心にかられた中国兵の過失に基づく発砲騒ぎ−は、いかにもありそうな状況であり、あり得ることであった。 また抗日意識に燃えた中国兵の日本軍に対する反感が昂じ、発作的に発砲したのが他の同輩を誘発したとしても有り得ないことではない。 しかし事件前後の種々の出来事を照合してみると、右の原因だけでは依然解釈のつかない問題も残り、陰謀説を否定し去ることはできない。 肝心なことは、最初の射撃以後、何故連鎖的に事件が拡大されていったかという政治的背景の究明である。

   また、中国共産党北方局による抗日工作が第二十九軍内に浸透したため、軍内の過激分子によって事件が引き起こされたとする説がある。 これも、当時の状況からしてあり得ることである。 また、戦後、中国人民解放軍政治部が発行した初級革命教科書の中にも、「蘆溝橋事件は中国共産党北方局の工作である」と記した資料があるといい、共産党による謀略の可能性も大きい。

   その他にも、北平陸軍機関の「北平特務機関日誌」7月16日の記事に、「北支事変ノ発端ニ就テ」として下記のように述べられている。

  北支事変ノ発端ニ就キ冀察要人ノ談左ノ如シ

  事変ノ主役ハ平津駐在藍衣社第四総隊ニシテ該隊ハ軍事部長李杏村、社会部長齋如山、教育部長馬衡、新聞部長成舎吾ノ組織下ニ更ニ西安事変当時西安ニアリシ第六総隊ノ一部ヲ参加セシメ常ニ日本軍ノ最頻繁ニ演習スル蘆溝橋ヲ中心ニ巧ミニ日本軍ト第二十九軍トヲ衝突セシメムト画策シアルモノニシテ第三十七師ハ全ク此ノ術中ニ陥入レルモノナリト

  尚 北寧鉄路ニハ戴某ナルモノ潜入シ工作中ト謂ハル

3 兵1名の行方不明について

  清水中隊長が、集合喇叭により第八中隊を大瓦窰西方「トウチカ」附近に集結させた際、初年兵1名が行方不明となっていることがわかり、中隊は緊迫した。 清水中隊長は、第三大隊長一木少佐に対し、とりあえず不法射撃を受けたことと兵1名が行方不明である状況を報告した。 しかし、その約20分後、この初年兵は発見された。 無断で用便に行っていたのであった。 中隊長は、西五里店に引き揚げ、8日2時過ぎに大隊長に会い、行方不明の兵が復帰したことも報告した。

  最初の報告を受けたときに一木大隊長と牟田口聯隊長が部隊の出動を決心したのは、「暗夜の実弾射撃」よりも「兵一名行方不明」を重視した結果であった。  しかし、午前2時過ぎには行方不明の兵発見の報告を受けているので、じ後の中国側との折衝においても、当時はこれを全然問題にしていない。

  しかし、中国側では故意に兵一名行方不明及びその捜索を蘆溝橋事件及びその拡大の原因であるとし、中国軍による不法射撃の件は不問に付している(中国側に不利なことに敢えて触れなかったものと推定される)。 これは、極東軍事裁判(いわゆる東京裁判)における秦徳純の供述、蒋介石の伝記『蒋介石』、何応欽の『何上将の抗戦期間中における軍事報告』も同様であり、民国41年(昭和27年)に中華民国国防部が発行した『抗戦簡史』にも同様の主張が為されているが、その内容は事実とは大幅に異なるもので、明らかに虚偽である。 参考までに『抗戦簡史』の記述を掲げると次のとおりである。

  民国二十六年七月七日夜十一時、豊臺駐屯の日軍の一部は苑平城外蘆溝橋付近において夜間演習を名目となし、日兵一名が失踪したるを口実として、日軍武官松井〔北平陸軍機関長 松井太久郎大佐のこと〕は部隊を引率〔言うまでもないが特務機関長が「部隊」を引率することなど編制上有り得ない〕して苑平城内に進入し捜査せんことを要求す〔後述するが、この様な事実はない〕。 当時我が蘆溝橋駐在部隊は、第三十七師第二百十九団吉星文部隊の一営金振中部隊なり。 時に深夜にして将兵は熟睡中なるをもって当然日軍の要求を拒絶す。 日軍はただちに蘆溝橋を包囲す〔前述のとおり、これも完全な虚偽〕。 その後、双方は代表を現地に赴かしめ調査することに合意す。 然るに日本の派したる寺平輔佐官は依然として日軍の入城、捜索を要求す〔実際は寺平大尉は事件の拡大防止のための協議をした〕。 われ承諾せず。 日軍は東西両門外にありて砲撃を開始す。 われ反撃を与えず〔これも虚偽である〕。 日軍の攻撃本格的となるや、わが守備軍は正当防衛の目的をもって抵抗を開始す。 双方に死傷者あり。 暫時、蘆溝橋北方において対峙の状態となる。

  上掲文章は、昭和12年7月8日の中国側新聞『亜州新報』夕刊に掲載された内容とほぼ同じである。 当時この新聞を読んだ寺平大尉が発行人の林耕宇を詰問したところ、林はその記事が記者の創作であると白状し謝罪したという。 しかし、これは単なる一記者の創作ではなく、秦徳純の当時政府発表であるとも言われる。

  なお、『北平陸軍機関業務日誌』によると、7月9日19時の中国中央放送局の放送は、「日本軍は近来蘆溝橋を目標として演習をなしゐたり。 八日朝、たまたま日本軍の前進し来るを、わが方は蘆溝橋(宛平県城)を奪取せらるるものと見られたり。 然して之による衝突が事件の発端なり。」と報じていたが、言うまでもなくこれも内容が事実とは全く異なっており、虚偽である。

4 聯隊長・大隊長の心理

  牟田口聯隊長・一木大隊長が武力行使を決心したとき、その潜在意識に強く影響を与えていたのは、度重なる中国軍将兵の侮日行為、特に一年前の「豊臺事件」であった。 彼等はこの事件処理が手ぬるかったため中国側の侮日観念を増大させたのだと考え、もしこの様な事案が再び起こったら、断固膺懲を加えようと考えていた。 牟田口聯隊長は、断固たる態度を示すことが早期解決・不拡大処理となり、今後の事件発生を抑止できると判断したのである。 一木大隊長も、一撃を与えれば事件はそれで収まり、決して後の支那事変のように拡大するものとは考えていなかったと述べている。

(平成11年7月19日)


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