(現、陸自土浦駐屯地、霞ヶ浦高校、理想科学、農地、住宅地ほか)

 

旧土浦海軍航空隊跡地

航空写真

 

昭和22年に米軍機により撮影された航空写真

写真右下には、旧海軍気象学校の一部が見える。

 

旧土浦海軍航空隊

施設配置図

 

阿見町立予科練記念館入口付近に設置されている施設配置図で、空襲で施設が焼ける前の配置を示している。

 

旧土浦海軍航空隊正門

  土浦海軍航空隊は、大正9年に編成された霞ヶ浦海軍航空隊水上班を前身とし、昭和15年に予科練習生教育部門が分離独立したもので、広大な敷地(現在の陸上自衛隊土浦駐屯地の約3倍)と多数の施設、2つの練兵場を有していた。

 写真は、取壊し前に撮影された土浦海軍航空隊開隊時に作られた正門(昭和15年)で、門柱は当時のままである(門柱上の照明器具は戦後警察予備隊が取り替えたもの)。 平成13年12月に撤去され現存しない。

 元々は正門の外側も航空隊の敷地であったが、戦後民有地となり写真のように家が建っている。戦前は、歩哨の哨所が正門外の道の両側にあったが、宅地となったため現在その痕跡は全くない。

 

旧医務科第一病棟

 昭和15年の開隊時に医療施設として建設された建物で、診察室、手術室、薬剤室、ボイラー室が完備され、予科練習生の健康管理・適性検査などに使用された。

 元々は4棟あったが、南側の第三・第四病棟は戦中に焼失、第二病棟は戦後陸上自衛隊が取り壊し、残った北側の渡り廊下と附属建物(便所)もつい最近取り壊された。

 現在は倉庫として使用されている模様である。

 写真のトタン板で覆われている部分は旧手術室で、昭和20年6月の空襲で負傷した若き予科練習生などが多数運び込まれた場所でもある。

 

旧医務科第一病棟南側渡り廊下と附属建物

 取壊し前の渡り廊下と附属建物(一部)の写真

 写真左側の青いトタン屋根の建物が第一病棟と第二病棟の間にあった附属建物(便所など)で、その右側が渡り廊下の一部(手前の切断面は板で塞がれている。) 写真中央樹木の向こう側にあるのが第一病棟の南面である。

 この写真は、雄翔館(土浦駐屯地内にある予科練の記念館)を訪れた際にたまたま撮影していたもので、今となっては貴重な写真となってしまった。(平成22年7月10日撮影)

 

旧土浦海軍航空隊本部庁舎

 航空母艦の艦橋を模したと言われる本部庁舎は、昭和15年の建設。戦時中は迷彩塗装されていた。

 終戦後は、占領軍による接収解除の後、日本体育専門学校(今の日本体育大学)が入ったりしたが、警察予備隊の新編後、最近まで武器学校本部庁舎として使用されていた。

 しかし、老朽化が著しく耐震強度に問題があったため、平成21年8月に取り壊され、平成22年末に新しい庁舎が落成した。

 

旧本部庁舎と「雄飛の松」

 「雄飛の松」は、皇紀2600年を記念して昭和15年11月22日、新治郡関川村の名主から譲り受けた名木を筏で霞ヶ浦を渡し、本館前に移植したもので、後日当時の航空隊副長であった成富武光中佐が「雄飛の松」と名付けた。

 戦時中の昭和20年6月10日の阿見空襲の際に機銃掃射を受けたが持ちこたえた。しかし、平成5年秋頃から樹勢が衰え、6年4月22日に伐採された。

 現在の松は2代目で、昭和18年頃本部前に構築された防空壕を偽装するため植えられた樹木の中の1本で、戦後他所へ移されていたものを譲り受け、現在地に移植されたものである。

 

旧本部庁舎の裏側

案外、この建物の裏側の写真は少なく、貴重な写真と思われる。 既述のとおり、この建物は平成21年8月頃に取り壊されており現存しない。

 

旧本部庁舎跡に新築された武器学校本部庁舎

 平成22年12月に落成した陸上自衛隊武器学校本部庁舎で、海軍時代の旧庁舎の趣を引き継いだデザインにしたと言われている。

 (写真は完成前のもの)