(現、陸自土浦駐屯地、霞ヶ浦高校、日動火災総合研修所、理想科学、農地、住宅地ほか)

 

号令台

昭和15年に作られた号令台で、後方(北側)には軍艦旗掲揚塔の基部も残っている。

号令台は現在も現役で使用されている。

手すりは自衛隊が付けたもので当時のものではない。

高さは約2メートルもありかなり高い。

昭和17年7月13日には、昭和天皇がこの台上にお立ちになり、予科練生の体操をご視察になっという由緒もある。

 

行幸記念碑

昭和天皇が昭和17年7月13日に霞ヶ浦・土浦両航空隊に行幸になられた後、その記念として建てられたもの。

裏側には、「昭和十七年七月十三日」、「奉仲聖駕」、「海軍中将戸塚道太郎謹書」と彫られている。

碑の所々が穴のように欠けているのは、米軍機による機銃掃射の痕だという。

 

常在戦場碑

 この碑の碑文は、昭和10年4月に山本五十六中将(当時)によって揮毫されたものである。 碑自体は、昭和18年4月18日にブーゲンビル島上空において戦死した後、山本元帥の遺徳を偲んで、同年9月、当時土浦海軍航空隊司令であった森啓吉大佐により、土浦海軍航空隊神社境内に石碑として建立されたものである。

 石組みの台座(元は現在の2倍ほどの高さだった)には、元は昭和18年12月に建立された山本元帥のコンクリート製全身像が建っていたが、終戦直後、像が汚されることを危惧した予科練習生達が上半身部と下半身部に2分割して霞ヶ浦の湖底に沈められた。(像の下半身部はその後一旦引き上げられてこの台座のそばに埋められた。)

 昭和23年、地元有志によって胸部が引き揚げられ、土浦市内の神龍寺に保管された後、元帥の出身地である新潟県長岡市に移された。 その後、昭和45年に広島県江田島の海上自衛隊第一術科学校教育参考館に寄贈され安置された。

 昭和30年、残されていた台座の上半分を撤去した上で、土浦海軍航空隊神社旧境内に残されていた常在戦場碑を設置した。撤去した台座の部材は、周囲を取り巻くように地面に並べられている。

 また、平成14年、グラウンドの工事に伴い、長い間埋められていた山本元帥像の下半身部分がこのそばで発掘された。