「杼樟之記」碑
旧司令部庁舎の右前方の木の下にある。
碑の周りは植え込みによって人が近づきにくくなっているが、大阪市が碑を目立ちにくくするためにわざとやっていると思われる。碑には、次のように刻まれている。
天正十一年豊公大坂城ヲ築クノ日杼樟樹ヲ此ニ手栽シテ繁茂シ二百八十余載ヲ経テ明治戊辰ノ兵火ニ罹リ今唯々枯株ヲ餘セリ 予其跡ノ終ニ湮滅ニ帰センコトヲ惜ミ更ニ同樹ヲ植ヘ以テ公ノ遺愛ヲ存ス 後人幸ニ之ヲ保護セヨ
明治三十一年三月十五日
大坂衛戍司令官 陸軍中将 正四位 勲二等 功三級 男爵 小川又次
小川中将とは、福岡県出身で、歩兵出身の陸軍草創期の将軍である。 明治5年2月15日に少尉に任官し、その後明治17年10月25日に大佐、23年6月7日に少将、28年8月20日に男爵に叙されるとともに功3級金鵄勲章の叙勲を受けた。 明治30年4月8日、中将に昇任するとともに第4師団長に補任された。 その約1年後にこの碑を建てたことになる。 その後、日露戦争では、37年9月3日に遼陽で戦傷、38年1月15日に大将になるが、12月14日に休職となった。 明治40年9月21日、子爵に進むとともに功2級金鵄勲章を受けた。 同年11月13日、予備役編入、42年10月21日62歳で没し正二位に叙された。
なお、この碑が建てられた当時は知られていなかったことだが、現在の大阪城は徳川家が豊臣家の大坂城を埋め立てて築造したもので、小川師団長が碑文の中で述べている”戊辰戦争で焼けた木”は豊臣秀吉が植えたものではない。
下の写真は、碑の傍らにある低い石碑で、「杼(旧字体で、木偏に豫)樟」と大きく刻まれているが、下半分が埋もれている。
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