大阪城内の戦跡(1)

(大阪市中央区大阪城1−1)

青屋門

かつては第四師団司令部等の警護のため歩哨が立っていた。

真心碑

大阪城山里曲輪の刻印石広場の西端にある小さな石碑で、中部第三十五航空情報隊女子防空通信手有志が昭和41年11月に建てた石碑。

真心碑の裏側

山里曲輪の石垣に残る被弾の痕

これは有名な被弾の痕で、本丸に上る階段の右脇にある。一般には「機銃掃射による被弾の痕」といわれているが、実際に現物を見てみると、その説明には無理があることがすぐにわかる。

まず、上の写真の石垣を見る。米軍の艦上戦闘機の機銃の弾痕とされる穴は全て下からえぐるような形状であり、しかも角から遠ざかるにつれて小さくなっている。しかも、穴の分布は角から左右に斜め上に上がるような形状であり、これらのことから上から撃たれたのではないことは明らかである。

更に、あまり知られていないが、この石垣の右奥数メートルの位置にある石段にも同様の穴があるが、これらは上の写真の石垣の穴よりも小さく、広範囲に分散している。

以上のことから、石垣の角付近の地面に爆弾が落ちて爆発し、その破片で石垣がえぐられたことがわかるのである。

天守台北東部分の石垣のずれ

米軍による大阪空襲の際、1トン爆弾の爆発によってずれてしまった石垣で、現在はコンクリートで補強されている。石垣の下の方は、焼けた跡が今も残っている。

天守台南西側の被弾の痕

これも1トン爆弾によるもので、焼けた跡と、爆弾の破片の跡がある。

「杼樟之記」碑

旧司令部庁舎の右前方の木の下にある。

碑の周りは植え込みによって人が近づきにくくなっているが、大阪市が碑を目立ちにくくするためにわざとやっていると思われる。碑には、次のように刻まれている。

天正十一年豊公大坂城ヲ築クノ日杼樟樹ヲ此ニ手栽シテ繁茂シ二百八十余載ヲ経テ明治戊辰ノ兵火ニ罹リ今唯々枯株ヲ餘セリ  予其跡ノ終ニ湮滅ニ帰センコトヲ惜ミ更ニ同樹ヲ植ヘ以テ公ノ遺愛ヲ存ス  後人幸ニ之ヲ保護セヨ

明治三十一年三月十五日

大坂衛戍司令官 陸軍中将 正四位 勲二等 功三級 男爵 小川又次

小川中将とは、福岡県出身で、歩兵出身の陸軍草創期の将軍である。 明治5年2月15日に少尉に任官し、その後明治17年10月25日に大佐、23年6月7日に少将、28年8月20日に男爵に叙されるとともに功3級金鵄勲章の叙勲を受けた。 明治30年4月8日、中将に昇任するとともに第4師団長に補任された。 その約1年後にこの碑を建てたことになる。 その後、日露戦争では、37年9月3日に遼陽で戦傷、38年1月15日に大将になるが、12月14日に休職となった。 明治40年9月21日、子爵に進むとともに功2級金鵄勲章を受けた。 同年11月13日、予備役編入、42年10月21日62歳で没し正二位に叙された。

なお、この碑が建てられた当時は知られていなかったことだが、現在の大阪城は徳川家が豊臣家の大坂城を埋め立てて築造したもので、小川師団長が碑文の中で述べている”戊辰戦争で焼けた木”は豊臣秀吉が植えたものではない。

下の写真は、碑の傍らにある低い石碑で、「(旧字体で、木偏に豫)樟」と大きく刻まれているが、下半分が埋もれている。

明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)之所碑

中部軍管区司令部庁舎前の植え込みの中にある石碑で、以前取材した際は植木で周りを取り囲んで、あからさまに見えないように作為していたが、邪魔な木が取り払われて見えるようになっていた。

(取材:平成14年1月3日、初掲:平成14年3月8日)



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