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来代(きた)工兵隊壕出入口付近の様子
為八海岸近くにある「来代工兵隊壕」。
来代工兵隊とは、混成第一旅団工兵隊のことで、一般に隊長の来代長平大尉の名をとってこう呼ばれているが、実は来代大尉は、日々の作業の辛さを嫌ったのか或いは死ぬのを恐れたのか、米軍来攻前に病気を理由に内地に帰ってしまい、硫黄島作戦の時には島にいなかったのである。
実際の指揮は部下の宮崎少尉がとっており、生存者の方達はこの壕を「宮崎壕」と呼んでおられる。
戦後、激戦をくぐり抜けて生き残った同工兵隊の元兵士達は、内地に帰ると、部下を見捨てた来代大尉を見つけ出すために方々を探したという。しかし、来代大尉の消息は今もってわかっていない。
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来代(きた)工兵隊壕出入口
近くにあるもう一つの出入口
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地下壕跡
二段になっている壕で、周辺には弾痕が多数残っている。
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海軍医務科壕
海軍の壕は、資材が豊富だったのも手伝ってか、陸軍のものよりも天井が高く幅も広いものが多い。
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医務科壕内部
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医務科壕内部
木箱などが散乱している。
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米軍上陸記念壁画
戦後米軍の将兵が岩を削って作った物
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銃弾の跡
ベトナム戦争後、帰還兵の一部が硫黄島に着任したが、その内の何人かがここでバーベキューをして酔っぱらい、
「我々はベトナムで苦しい戦いをしてきたのに報われていない。なぜ硫黄島の将兵だけが評価されるのか?!」
と言って壁画に銃を乱射したものだという。
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海上自衛隊硫黄島航空基地滑走路
元は米軍が旧元山飛行場を拡張して造った滑走路で、この下には日本軍陣地が多数の日本軍将兵と共に埋められたままとなっている。
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海軍第27航空戦隊司令市丸利之助海軍少将の和歌
基地の待合室の電話台にに張られているもの。
市丸少将は短歌(和歌)に造詣が深く、硫黄島に赴任後も多数の歌を詠んでいた。
その中の一つがこの歌で、硫黄島における水の大切さを詠ったものである。
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