硫黄島の戦跡

(東京都小笠原村硫黄島)

 

北地区隊地域A

 

「師団通信隊壕」石碑

第百九師団通信隊(隊長:森田豊吉陸軍大尉)の地下壕近くにある石碑

第百九師団通信隊壕

谷の奥に入口が作られている。

「兵団司令部壕」石碑

小笠原兵団司令部(第百九師団司令部)の地下壕近くにある石碑

兵団司令部号入口

いくつかあった兵団司令部壕の入口の1つ

石井式濾過機

「731部隊」などで有名になった石井四郎陸軍軍医中将が開発した濾過装置で、島を占領した米軍が血眼になって探したがとうとう見つけられなかった物。島の返還後に発見されたという。

この濾過機は、海水や人体から排出される水分を濾過して飲料水を作ることが出来る優れた装置であった。

作戦室

壕内は地熱と水蒸気で大変蒸し暑い。

千田狭間(せんだはざま)

「防衛庁戦史叢書」等によれば、混成第二旅団長千田貞季陸軍少将は、栗林兵団長の制止命令に反して残存兵力をもって突撃し戦死したことになっているが、真実はそうではないらしい。

千田少将は、米軍に囲まれて孤立した千田少将とその指揮下部隊は、当初栗林中将に対して総攻撃することを意見具申したが、長期持久出血戦法を貫く栗林中将はこれを認めず、兵団主力への合流を指導した。千田少将は、これに従って残存兵力を率いて北進を行い、途中で戦闘による死傷者を出しつつも、3月16日の朝、箱庭浜から温泉浜台上の壕に入った。目的地の兵団司令部まで約300メートルの距離である。この間、東海岸沿いに北上する約400名の将兵を目撃している生存者もおり、その人も「あの時期にあれだけの兵力を持っていたのは千田少将の部隊しかない」と証言している。

しかし、これを察知した米軍は、17日昼、包囲網を縮小しつつ猛攻撃を加え、各部隊はバラバラになり全滅した。千田旅団長、堀参謀長、そして千田少将の救出を命ぜられていた小林孝一郎少佐をはじめ、数十名の将兵がここで自決した。

戦後、硫黄島協会の遺骨収集団がここを発掘した際、軍刀が二十数振り、陸軍少将の襟章、陸軍少佐襟章、「小林孝一郎」の記名がある図嚢と命令書等が見つかったという。

千田狭間内の横穴内部

ここから頭部に銃創のある頭蓋骨が発見されたという。

アメリカ沿岸警備隊施設跡

兵団司令部壕の近くにある沿岸警備隊の施設跡。米軍占領時代に作られた物で、島に作られた通信施設の管理に当たっていたという。今でも多数の建物やバスケットボールコートなどが残っている。

「兵団副官部及軍医部壕」石碑

「昭和二十年三月十七日兵団司令部地下壕脱出の際、岡少佐及び一部兵力をこの壕内に残し偽電を発信して兵団司令部転進の欺騙を図る」と記されている。

軍医部壕左側入口

軍医部壕右側入口

副官部入口

 

(平成14年2月16日初掲)