千田狭間(せんだはざま)
「防衛庁戦史叢書」等によれば、混成第二旅団長千田貞季陸軍少将は、栗林兵団長の制止命令に反して残存兵力をもって突撃し戦死したことになっているが、真実はそうではないらしい。
千田少将は、米軍に囲まれて孤立した千田少将とその指揮下部隊は、当初栗林中将に対して総攻撃することを意見具申したが、長期持久出血戦法を貫く栗林中将はこれを認めず、兵団主力への合流を指導した。千田少将は、これに従って残存兵力を率いて北進を行い、途中で戦闘による死傷者を出しつつも、3月16日の朝、箱庭浜から温泉浜台上の壕に入った。目的地の兵団司令部まで約300メートルの距離である。この間、東海岸沿いに北上する約400名の将兵を目撃している生存者もおり、その人も「あの時期にあれだけの兵力を持っていたのは千田少将の部隊しかない」と証言している。
しかし、これを察知した米軍は、17日昼、包囲網を縮小しつつ猛攻撃を加え、各部隊はバラバラになり全滅した。千田旅団長、堀参謀長、そして千田少将の救出を命ぜられていた小林孝一郎少佐をはじめ、数十名の将兵がここで自決した。
戦後、硫黄島協会の遺骨収集団がここを発掘した際、軍刀が二十数振り、陸軍少将の襟章、陸軍少佐襟章、「小林孝一郎」の記名がある図嚢と命令書等が見つかったという。
|