(その2)

田安門(たやすもん)

兵営北側の田安門 大東亜戦争中は向かって右側の柱に、「東部第二部隊」(近歩一のこと)向かって左側に「東部第三部隊」(近歩二)の通称号が掲げられていた

田安門に残る釘の跡

部隊名の看板を取り付けた際の跡ではないかと思われる。

田安門内衛兵詰所跡

今は痕跡がないが、戦争中の写真を見ると往時は建物が2棟ほどあったようである。

皇紀二千六百年植樹記念碑

田安門内側の渡り櫓の更に内側左にある。数少ない近衛聯隊遺跡の一つ。

旧将校集会所裏庭への登り口

現在武道館がある場所は元は将校集会所があった場所であり、その裏庭が北側石垣上にあった ここは昭和22年以降、警察官の殉職者を祀る「弥生廟」の敷地となっておりその登り口には狛犬と標柱がある

弥生廟の標柱と狛犬

弥生廟標柱の後方、木の根本付近に明治時代の石柱が2本残っている。(写真中央)

弥生廟標柱の裏側

明治40年の旗竿基部?

旗竿の基部だと思われる石柱が2本残っている。

向かって右側は「田安●」とあるが、下部が埋もれているので掘り起こさないと読めない。

右側は「明治四十年六月」とあり、埋もれている部分には日付もあるものと思われる。

同上裏側

弥生廟

昭和天皇御野立所の説明板

昭和天皇御野立所記念碑(正面)

この碑は、当時の天皇陛下と同じく、九段会館の方向(東の方向)を向いている。

碑を右後方から見たところ

碑の右側面

碑の背面

大銀杏

これも戦前から残る近衛歩兵営の遺跡である。武道館前にあり、ここには何の説明版もないが昔から残っているものである。

近衛歩兵第一聯隊跡記念碑

近衛歩兵第一聯隊は、陸軍最初の歩兵聯隊の一つとして明治7年(1874年)1月20日、西郷隆盛が率いる御親兵を母体として編成され、1月23日に軍旗を親授された。近衛は全国選抜徴兵制によって全国各地から選び抜かれた模範青年で編成された。大正天皇・昭和天皇も皇太子時代には在隊された。

平時は皇居警護の任に当たり、戦争・事変に当たっては戦地に赴いた。明治十年の西南戦争、日清戦争後の台湾征討、日露戦争に参加した。支那事変に当たっては、昭和十四年十一月二日動員下令、近衛混成旅団(桜田兵団)の一部として大陸に渡って「広東作戦」「南寧作戦」「翁英作戦」に参加した。「翁英作戦」が中止されると南寧を包囲する中国軍と激戦を展開した。その後も、「上思県討伐、江南作戦、第一次・第二次西路作戦、仏印国境作戦など幾多の作戦に参加し、昭和十六年一月十三日に東京に帰還した。

大東亜戦争中は、終始皇居の守衛と帝都防衛に当たった。昭和二十年五月二十五日の皇居爆撃炎上に際しては聯隊をあげて出動し、消火作業に従事した。

昭和二十年八月二十五日、近衛第一師団命令により軍旗を奉焼し、九月十五日、聯隊は解散した。

近衛歩兵第二聯隊跡記念碑

近衛歩兵第一聯隊と同じく陸軍最古の聯隊である。

近歩一とともに西南戦争、台湾征討、日露戦争に参加、その後、しばらく戦地に出ることはなかったが、昭和十四年十二月、華南戦線に動員下令、近衛混成旅団の一部として「広東作戦」「南寧作戦」「翁英作戦」に参加した。続いて南寧が中国軍に包囲されると、近衛混成旅団と第十八師団はこれを救援した。昭和十五年八月末、北部仏印進駐のための印度支那派遣軍の基幹部隊として転属命令を受け、九月下旬に仏印に無血進駐した。

昭和十六年四月八日、聯隊は東京に帰還し、大東亜戦争中は皇居警護と帝都防衛の任に当たり、昭和二十年八月二十五日に軍旗を奉焼した。

近衛兵の軍帽前章を象ったレリーフ

記念碑の後方に取り付けられている。

近衛歩兵第二聯隊の戦前の記念碑

門柱代わりに左右に1基ずつ別のものが建てられている。

(平成13年11月3日初掲、同17年7月7日改訂)