(現、北の丸公園)

近衛歩兵第一聯隊及び近衛歩兵第二聯隊周辺の現状

近衛歩兵第一・第二聯隊正門跡付近の現状

北の丸公園の南側入口になっている。 門柱その他遺構は北の丸公園造営の際に取り壊され全く見あたらない。 写真左方向に進むと国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部)に至る。

写真右下方向(正門の正面)には北白川宮の銅像があったが、北の丸公園整備の際に西側に移転された

かつての正門付近

正門の向かって右側部分しか写っていないが上の写真の中央やや右側に見える石垣付近がおおむね門柱の跡に当たるようである

なお、左の写真の白馬に騎乗されているのは昭和天皇である。

正門跡付近から兵舎跡方向を望む

公園造成工事によって現在は何の痕跡もないが、かつては煉瓦造りの兵舎が前方にそびえ立っていた。

現在の北白川宮能久銅像

能久親王は弘化四年(1847)、伏見宮邦家親王の第九皇子としてご誕生。 嘉永元年(1848)青蓮院宮ご相続、安政五年(1858)輪王子宮ご相続公現法親王(俗名能久)と称し、上野寛永寺門跡となられた 維新後の明治三年(1870)還俗して伏見宮にご復帰、軍籍に就かれた。 同年勅命によりプロシヤ国留学を命ぜられた 歩兵・砲兵聯隊及び参謀学校で兵学を学ばれた後明治十年ご帰朝、近衛砲兵聯隊附 ご留学中の明治五年に北白川宮ご相続。 明治十七年、陸軍少将。歩兵第1旅団長参謀本部ご出仕。 同二十五年、陸軍中将 第六・第四師団長をご歴任。 明治二十八年一月、近衛師団長 日清戦争後の台湾征討にご出征、現地で疫病にかかられ、十月二十八日に台南でご逝去(49歳) 陸軍大将に任ぜられ大勲位菊花頸飾及び功三級金鵄勲章を賜り、国葬をもって豊島岡稜に御埋棺された

この銅像は明治三十七年一月二十六日、旧江戸城北の丸に駐屯していた近衛歩兵第一・第二聯隊正門前に設置された 戦後も、皇族の銅像はさすがに撤去されなかったが、昭和三十八年、北の丸公園整備計画に従い旧近衛師団司令部庁舎東側(正門跡から約60m西)に移された 像の製作は、台湾征討時に近衛騎兵として側近に仕えた新海竹太郎鋳造は陸軍砲兵工廠である。 昭和六十年には、傷んだ箇所の修復が行われた

正門前の北白川宮像

写真左に正門があった 銅像の移転後この位置は交差点となっている。写真中央は天皇陛下

怡和園(いわえん)跡

東京国立近代美術館(旧近衛師団司令部庁舎)の右脇の細い道を北(九段方向)へ進むと(途中で何本かに分岐するので堀沿いの高い道を進む)1メートルくらいのこの石碑がひっそりと建っている

幕末の江戸城北の丸には田安家(西側)・清水家(東側)の屋敷があった。明治維新になって陸軍創設に伴い田安家跡地に近衛歩兵第一聯隊、清水家跡地に同第二聯隊の兵営が建設され終戦まで駐屯していた

怡和園は近衛歩兵第一聯隊の敷地内にあり、明治中頃までは土を盛り上げただけの土堤であったものを明治41年に手を入れて、広場や四阿(あずまや)を設け花卉(がき)を植えて小庭園を造り時の聯隊長由比光衛大佐はこれに怡和園と命名し、石碑を建てた。 爾来将兵の散策や憩いの庭としてまた体操や訓練の場として長く親しまれていたという。

戦後、北の丸公園造成の際この庭園はその様相を変え、石碑は地中に埋められていたが、その後わずかに出ていた石碑の頭部を発見しこれを発掘して再建した。「怡和」とは、「喜び和らぐ」の意味である

清水門

怡和園と反対側(東側)近衛歩兵第二聯隊跡にある 門自体は江戸時代の物であるが、聯隊駐屯時は営門として使用されていたがここから出征すると縁起が悪いとされ普段は閉門されていたという

明治時代の近衛砲兵営跡を望む

清水門を入って堀を隔てたところに皇宮警察北の丸宿舎があるがここは明治時代には近衛砲兵営があった 明治11年8月23日ここの下士卒約260名が暴動を起こした(「竹橋事件」) 西南戦争の恩賞が下士卒に及ばないことや砲兵の俸給が歩兵並みに減俸されたことによる不満が原因といわれている 彼らの計画としては、隣接する近衛歩兵聯隊と協力して諸大臣を拘束し天皇に直訴するというものだったというが歩兵聯隊はこれに呼応せずかえって砲兵営を攻撃した。首謀者は三添卯之助、小島万吉らで大隊長や週番士官を殺害して脱営し赤坂仮皇居に向かう途中で阻まれ多数が逮捕された 中にはのどを突いて自決する者もあったという。結局53名が死刑に処せられている。 この事件を契機に陸軍卿山県有朋は「軍人訓戒」を配布し明治15年には「軍人勅諭」が出された。

石段に残る煉瓦片

清水門から兵営に向かう石段の途中には兵営に使われていた煉瓦の断片などが所々に落ちている

(平成13年11月3日初掲、同17年7月7日改訂)