(1) 第2軍の行動(南山の戦闘)
ア 遼東半島への上陸
- 明治37年3月15日に編成された第二軍(軍司令官:奥保鞏(おく・やすかた)陸軍大将。第一・三・四師団基幹)は、大阪と広島の宇品から乗船し、4月30日大同江に集結、旅順港第3次閉塞作戦に連携して、5月5日から13日までの間に塩大澳付近に主力の無血上陸を完了した。 ロシア軍は5月5日に部隊を沿岸に派遣したが上陸を妨害することはできなかったのである。 また、この頃、日本の第一軍は鳳凰城に進出していた。
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- 第二軍の任務は、「大沙河口付近に上陸し、内地方に根拠を占め、爾後第1軍と策応し、敵を求めてこれを攻撃する。」ことであった。 大本営は、第一軍が敵を鴨緑江方面に牽制している間に第二軍を遼東半島に上陸させ、両軍呼応して敵を包囲攻撃させようと計画したのである。
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イ 南山の戦闘
- 第二軍は、大連湾付近に将来作戦の根拠地を確立するため、まず金州付近を占領することにした。 5月15日行動開始、16日には第四師団をもって金州と遼陽方面との遮断に成功、26日、3コ師団を並列して南山を攻撃した。
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- 南山要塞のロシア軍は、兵員35,000名、砲57門、そして機関銃10丁を有していた。 機関銃が本格的に使用されたのはこの戦闘が初めてである。 日本軍の攻撃は困難を極め、死傷者が続出して一時攻撃が行き詰まった状態となった。 しかし、奥軍司令官は全滅覚悟で最後の突撃を敢行し、これが成功して夜に入って南山要塞を占領した。
南山の戦闘後、第十一師団・第五師団及び騎兵第一旅団が到着して第二軍に編入された。
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- 南山の戦闘は、日清戦争とは全く異なる新しい戦闘であり、その後における旅順の戦闘の様相を示唆したものであった。 しかし残念なことに、日本軍はこの戦闘の教訓を十分に活用できなかった。
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- なお、本戦闘に参加した日本軍は、36,400名中12%に相当する4,387名の戦死者をだした。
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