明治三十七八年戦役(日露戦争)

8 遼陽への前進
(1) 大本営の作戦指導
 
  大本営はロシア軍の有力な部隊が第二軍正面に南下しつつあることと第一軍右側方面で常に強力なロシア騎兵部隊が行動していることを知り明治37年6月上旬から中旬にかけて
 
  ア 第六師団を第二軍に
  イ 後備第一旅団・後備第四旅団を第三軍に
  ウ 後備第十旅団を独立第十師団に
  エ 近衛後備旅団・後備歩兵3コ大隊を第一軍に
 
それぞれ兵力を増強した。
 
  6月2日大本営は独立第十師団に対し第二軍の作戦に策応するため蓋平方向に攻撃するよう命じた 独立第十師団は第一軍から派遣された浅田支隊を合わせて指揮し6月10日岫巌(しゅうがん)を占領した
 
  クロパトキンは6月11日ステッセルから旅順方面の敵情を聞き旅順救援隊の兵力を増強する必要性を感じたが、日本軍が岫巌に進出したとの報告を受けたため東からの攻撃をおそれて兵力増強の決心ができなかった
 
  ついで大本営は第二軍及び独立第十師団を遼陽平野に前進させ雨期(7〜8月頃)前にロシア軍主力を撃破させる方針を定め、6月19日前進に関して所要の命令を下令した また作戦の進展に伴い在満諸軍を統率するため「満州軍総司令部」を編成した。 大山巌元帥を総司令官児玉源太郎大将を総参謀長とする総司令部は6月23日編成を完結、この日から満州軍を指揮下に入れた 日本は、戦争終結のきっかけをつかもうと考えていたので、遼陽での会戦を極めて重視しこの作戦指導のため全能力を傾注した
 
  このため6月30日独立第十師団を増強して第四軍(司令官:野津道貫大将第十師団・第十後備旅団)を編成し、第一軍と第二軍の間において策応させることとした こうして日本軍は3方向から遼陽を包囲する態勢をとろうとしたのである

(2) 第一軍方面の状況

 
  第一軍は明治37年6月19日の大本営命令により6月23日鳳凰城付近を出発し、同29日には北分水嶺摩天嶺石門嶺の線を占領し爾後の前進準備をした この間第12師団のみは更に前進して細河沿い付近を占領した
 
  ロシア軍側は6月7日東方で防御して旅順を救援する配置をとったが旅順救援隊は6月15日得利寺で敗北した 一方日本の第一軍が西進を開始したことを知ると6月25日に岫巌に対する攻撃を計画した。 ところが翌26日日本軍が連山関方面に進出したとの情報を得て左側背に脅威を感じて東部兵団には浪子山への退却を命じ岫巌方面のザスリチ部隊には逐次抵抗しつつ後退を命じ南部兵団には大石橋への退却を命じた
 
  7月5日クロパトキン大将は第一軍が左側背に迫る危険を重視し日本軍が海城又は遼陽に向かって攻撃したならば南部兵団は海城又は大石橋に退却するように計画した しかしアレキセーエフ総督が異議を唱え、速やかに第一軍を分水嶺又は鳳凰城以東に撃退すべきと主張したためクロパトキンは東部兵団に攻撃を命じたが、かえって日本軍に撃退されて藍河(らんが)の線まで退却し、更に橋頭奪回のため出撃した第10軍団の攻撃も失敗してしまった ついで、7月27日クロパトキン大将はシベリア第5軍団(8月10日に奉天に到着する)の海城到着を待ち第10・17の両軍団を東方正面に集結し、第一軍に対する総攻撃実施を決心しまず南部兵団の主力であるシベリア第1軍団とシベリア第4軍団主力を海城付近に集結させた しかし、8月1日東方正面及び柝木城付近で敗戦があったので南部兵団を海城付近で戦闘させることに不安を感じたクロパトキンは8月2日これを鞍山站の陣地に後退させ3方面に対する防勢の態勢をとった
 
  第十二師団は7月19日ロシア第10軍団を撃退して橋頭を占領した しかしロシア軍が大軍を集結して攻撃を準備中であることを知った黒木軍司令官はとどまって待つよりも攻勢をとる方が有利と判断し7月30日夜摩天嶺付近を出発し8月1日朝楡樹林子(ゆじゅりんし)及び様子嶺付近を占領した ロシア軍は攻撃準備中にその企図を挫折されたため東部兵団は浪子山付近に、第10軍団は大安平付近に後退した 
(3) 第4軍方面の状況
 
  独立第十師団を基幹に6月30日編成された第四軍は第二軍の大石橋攻撃を容易にする目的をもって7月22日行動を起こして柝木城に向かった 7月28日第に軍の第五師団が指揮下に編入され、また第二軍の第三師団右側支隊が第四軍の左翼にあって協力した 第四軍は、7月31日から8月1日にかけ、柝木城付近のロシア軍を攻撃これを海城方面に撃退した 翌8月2日総司令部から第二軍と協力して海城を攻撃せよという訓令を受け8月3日石門嶺〜英城子の線まで進出したがすでにロシア軍が海城を撤収した後であったのでこの線に停止して遼陽攻撃の準備に取りかかった
(4) 第2軍方面の状況
 
  普蘭店大沙河の線に展開して北進を準備していた第二軍はシタケリベルグ軍南下の報を受け積極的にこれを撃破するに決し6月13日現在地を出発15日得利寺南方地区に応急陣地を占領していたロシア軍を攻撃激戦の後熊岳城方向に敗走させた。 この戦闘は日本軍33,600名に対しロシア軍は41,400名、ロシア軍も攻撃を企図しており、混戦の間にはロシア軍にも反撃に転ずる好機があったが指揮官の優柔不断と各部隊の連携不十分のため敗退したものである
   
  第二軍はこの後兵站上の問題で一時前進が停滞したが6月21日熊岳城、7月9日蓋平に進出、7月24日から大石橋を攻撃して25日これを占領した 7月28日第四軍に配属されていた第五師団が指揮下に復帰し8月1日大石橋を出発して海城に向かったが同地のロシア軍はすでに撤退した後であった 第二軍は海城牛荘(にゅうちゃん)を経て8月4日には言堡子(げんぽし)〜大堡屯の線に進出し遼陽攻撃を準備した
 
  第二軍は得利寺から大石橋まで数度の戦闘を交えて勝利したが常にロシア軍は夜間秘かに後退したためこれを捕捉することはできなかった
(5) 遼陽包囲態勢の完整
 
  このようにして8月上旬日本軍は3方向から遼陽を包囲する形となったが一方ロシア軍は各方面の攻撃企図を破砕され敗退を続けたとはいえ退却はおおむね計画的に実施され日本軍に勝る大軍を遼陽に集結することができた

(平成10年9月17日掲載、平成16年12月14日修正)

9 黄海海戦・蔚山沖海戦

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