明治三十七八年戦役(日露戦争)

9 黄海海戦・蔚山沖海戦
(1) 黄海海戦(明治37年8月10日)
 
  明治37年(1904年)2月8日夜、日本の聯合艦隊は、10隻の駆逐艦をもって旅順港外に停泊中の14隻のロシア艦隊を奇襲、戦艦2隻と巡洋艦1隻を大破させた。 このため、旅順のロシア艦隊の行動はその後消極的となり、旅順港から出撃するのをためらうようになっていた。
 
  しかし、同年8月10日、ロシア皇帝ニコライ2世の命令により、ロシア太平洋艦隊がウラジオストックに向けて出撃した。 港外に待機していた聯合艦隊はこれを捕捉し、日露主力艦隊同士による最初の海戦が起こった。 これが黄海海戦である。
 
  両艦隊は熾烈な砲撃戦を展開したが、そのうちロシア艦隊司令官ウィトゲフト少将が戦死したため、ロシア艦隊の統率が乱れ、20隻の艦隊のうち戦艦5隻を主とする9隻はかろうじて旅順港に逃げ込んだ。 聯合艦隊は、ロシア艦隊を撃滅することはできなかったが、後の日本海海戦を成功に導く貴重な戦訓を得ることができた。
(2) 蔚山沖海戦(明治37年8月14日)
 
  ロシア海軍ウラジオ艦隊(巡洋艦4隻基幹)は、開戦後、日本軍の海上輸送の遮断に任じ、6月15日に輸送船「常陸丸」と「佐渡丸」を撃沈し、7月20日には津軽海峡を通過して太平洋に進出、沿岸を航行する日本船を片っ端から拿捕・撃沈した。
 
  日本と朝鮮半島とをつなぐ海域の防衛に任ずる第2艦隊(上村中将)は、このウラジオ艦隊が神出鬼没であったために翻弄されていたが、8月14日、蔚山沖でこれを捕捉、その1隻を撃沈、2隻を撃破して、日本の海上輸送を安全にすることができた。

(平成10年9月24日掲載、平成16年12月14日修正)

10 遼陽会戦

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