明治37年8月上旬、遼陽付近にあるロシア軍が13コ師団基幹20万以上と判断されたのに対して、包囲の態勢をとった日本軍は9コ師団基幹約13万で、ロシア軍の方が歩兵58コ大隊、砲134門ほど多いと見積もられた。 更に、8月中旬以降には続々とロシア軍の増援部隊が到着すると見積もられていたので、攻撃が遅くなればなるほど日本軍が不利になるのは明らかであった。 開戦以来、得利寺の戦闘を除けば、日本軍は常に局地的な優勢をもって戦い勝利を続けてきた。 しかし、遼陽において初めて、周到かつ堅固な陣地を占領した極めて優勢な敵に対して決戦を求めようと計画したのであった。 8月5日、総司令部が立案した攻撃部署は次のとおりであった。(ア)第一軍は、主力をもって太子河右岸、一部をもって太子河左岸を、遼陽へ東方から攻撃
(イ)第四軍は、海城〜遼陽道の東側地区を遼陽に向かい攻撃
(ウ)第二軍(−1コ師団)は、海城〜遼陽道の西側地区を遼陽に向かい攻撃
(エ)総予備隊(1コ師団)は、海城〜遼陽道付近に位置する。(実際には1コ旅団となる。)
-
-
- この計画は、8月5日第1軍に電報され、第二軍・第四軍には6日に伝達された。 各軍は、この計画に基づいて、逐次前進して攻撃準備を推進した。
当時ロシア軍が更に北方に後退するか決戦を挑むか、また決戦陣地が鞍山站か遼陽か、いずれとも判断しかねたが、満州軍総司令部は8月18日頃を期して総攻撃を実施することに決定し、8月14日命令を下達した。 しかし、8月13日から降り出した雨が豪雨が16日になっても止まず、至る所で交通途絶が生じたので、16日付をもって攻撃時期を延期した。 8月下旬になってようやく天候が回復、敵情にも大きな変化が認められなかったので、前計画のままで攻撃時期を8月28日と定め、22日に各部隊に下達した。
一方ロシア軍は、8月上旬にはまだ後退するか決戦するかを決めていなかった。 ただ、決戦陣地としては遼陽の線を予定していた。 ところが下旬になって増援部隊が到着する見込みがついたので、鞍山站の線で決戦防御をするよう決心を変更した。 しかし、クロパトキン大将は、第一軍が太子河右岸に渡ろうとするのを知り、左側背に脅威を感じて、再度決心を変更し、全軍を遼陽に集結させる処置をとった。
8月27日、第二軍・第四軍が鞍山站陣地を攻撃するため準備位置に前進したところ、この日、鞍山站のロシア軍は続々と遼陽方向に後退を開始した。 満州軍総司令部は、直ちに追撃に移り、もしロシア軍が停止したら、その準備未完に乗じて攻撃することに決め、8月28日午後、次の要旨の命令を下達した。