明治三十七八年戦役(日露戦争)

10 遼陽会戦
(1)全般
 
 遼陽会戦は、日露戦争初期の明治37年8月末から9月はじめにかけて遼陽付近で日露両軍主力が初めて激突した会戦である。 ロシア軍(司令官:クロパトキン大将)約22万は遼陽付近に布陣し、日本軍(総司令官:大山元帥)約13万を迎撃する態勢にあった。 日本軍は、ロシア軍増援部隊の来着に先立ってこれを撃破するため、8月26日、夜襲をもって弓張岑付近のロシア軍前進陣地を奪取、30日には東から第一・四・二軍を並列して遼陽を包囲する態勢で総攻撃を開始した。 激戦の後、9月4日に日本軍は遼陽を占領、日本軍の勝利となった。 この会戦の結果、南満州は日本の勢力下におかれた。
(2) 会戦前の状況
 
ア 満州軍総司令部の計画
 
 明治37年8月上旬、遼陽付近にあるロシア軍が13コ師団基幹20万以上と判断されたのに対して、包囲の態勢をとった日本軍は9コ師団基幹約13万で、ロシア軍の方が歩兵58コ大隊、砲134門ほど多いと見積もられた。 更に、8月中旬以降には続々とロシア軍の増援部隊が到着すると見積もられていたので、攻撃が遅くなればなるほど日本軍が不利になるのは明らかであった。 開戦以来、得利寺の戦闘を除けば、日本軍は常に局地的な優勢をもって戦い勝利を続けてきた。 しかし、遼陽において初めて、周到かつ堅固な陣地を占領した極めて優勢な敵に対して決戦を求めようと計画したのであった。 8月5日、総司令部が立案した攻撃部署は次のとおりであった。

(ア)第一軍は、主力をもって太子河右岸、一部をもって太子河左岸を、遼陽へ東方から攻撃

(イ)第四軍は、海城〜遼陽道の東側地区を遼陽に向かい攻撃

(ウ)第二軍(−1コ師団)は、海城〜遼陽道の西側地区を遼陽に向かい攻撃

(エ)総予備隊(1コ師団)は、海城〜遼陽道付近に位置する。(実際には1コ旅団となる。)

 
 
 この計画は、8月5日第1軍に電報され、第二軍・第四軍には6日に伝達された。 各軍は、この計画に基づいて、逐次前進して攻撃準備を推進した。

 当時ロシア軍が更に北方に後退するか決戦を挑むか、また決戦陣地が鞍山站か遼陽か、いずれとも判断しかねたが、満州軍総司令部は8月18日頃を期して総攻撃を実施することに決定し、8月14日命令を下達した。 しかし、8月13日から降り出した雨が豪雨が16日になっても止まず、至る所で交通途絶が生じたので、16日付をもって攻撃時期を延期した。 8月下旬になってようやく天候が回復、敵情にも大きな変化が認められなかったので、前計画のままで攻撃時期を8月28日と定め、22日に各部隊に下達した。

 一方ロシア軍は、8月上旬にはまだ後退するか決戦するかを決めていなかった。 ただ、決戦陣地としては遼陽の線を予定していた。 ところが下旬になって増援部隊が到着する見込みがついたので、鞍山站の線で決戦防御をするよう決心を変更した。 しかし、クロパトキン大将は、第一軍が太子河右岸に渡ろうとするのを知り、左側背に脅威を感じて、再度決心を変更し、全軍を遼陽に集結させる処置をとった。

 8月27日、第二軍・第四軍が鞍山站陣地を攻撃するため準備位置に前進したところ、この日、鞍山站のロシア軍は続々と遼陽方向に後退を開始した。 満州軍総司令部は、直ちに追撃に移り、もしロシア軍が停止したら、その準備未完に乗じて攻撃することに決め、8月28日午後、次の要旨の命令を下達した。

   (ア) 第一軍は、なるべく速やかに主力を太子河右岸に移す準備をせよ。
 
   (イ) 第四軍は、早飯屯〜桜桃園の線に開進し、要すれば第一軍の攻撃に参加せよ。
 
   (ウ) 第二軍は、沙河〜魯台子の線に開進せよ。
 

イ 各軍の行動

 第一軍は、8月23日から行動を開始し、25日夜、弓張嶺〜寒波嶺の高地線を夜襲して奪取した。 27日には湯河右岸一帯の高地を占領、更に29日には石咀子〜周家溝子〜桂子山の線に進出して攻撃を準備した。
 
 8月25日夜の弓張嶺に対する第二師団の夜襲は、師団級の大部隊をもってする夜襲成功の例として、世界の戦史に1つの範例を残すものとなった。
 
 第二軍・第四軍は、8月26日から行動を開始し、ほとんど抵抗を受けることなく、8月29日、第二軍は沙河、第四軍は大山〜桜桃園の線に進出し、攻撃を準備した。
(3) 遼陽会戦
 
ア 会戦初期
 
 日本軍は、8月30日、各方面で攻撃を開始した。 第一軍主力(第2師団・第12師団)は、8月30日夜、連刀湾から太子河を渡河し、皇姑墳(こうこふん)に進出した。 近衛師団は、太子河左岸の徐家溝南方高地を占領して第四軍との間の広い間隙を守った。 主力は、8月31日その一部をもって本渓湖を占領し、主力をもって9月1日黒英台・五頂山を占領して、ロシア軍の左側背を脅かした。
 
 8月30日、第2軍は首山堡を攻撃、第4軍は北大山を攻撃した。 しかし、ロシア軍の激しい抵抗により攻撃は進展せず、悲惨な戦況を現出した。 しかし、31日夜、ロシア軍が退却したので、9月1日朝、高力村〜達子営〜東八里庄〜東旺堡台の線に進出、遼陽南側設堡陣地に対する攻撃を準備した。 後に陸の軍神となる歩兵第三十四聯隊の橘少佐(戦死後中佐)は、8月31日首山堡の攻撃中に戦死した。
 ロシア軍は、当初、遼陽西方から日本軍左翼に向かって攻勢をとる計画であったが、第一軍の進出によって左側背に脅威を感じ、まず太子河右岸において攻勢をとるよう決心を変更し、なるべく多くの予備隊を控置しようとつとめ、9月1日には第一軍に対する逆襲を決心した。
イ 遼陽の攻略
 第一軍は、9月2日攻撃を続行しようとしたが、優勢なロシア軍の反撃に遭い、一時は饅頭山(まんとうざん)を奪回されるなど苦戦に陥った。 3日未明にようやくこれを撃退、4日から再び攻撃前進に努めたが、またも混戦乱闘となり、5日夜にようやく大達蓮溝、蘭泥堡、羅大台付近に進出した。
 
 第一軍に対するロシア軍の逆襲は、クロパトキン大将自らが指揮し、非常な決意のもとに開始されたが、8月30日以来、首山、北大山方面に日本軍の猛攻を受け、逐次総予備隊を投入したので、第一軍に対する逆襲は不徹底に終わった。 しかも、これが失敗した後、第二軍左翼への反撃の機会をも逸した。 ロシア軍はせっかく優勢な兵力を有しながら、至る所に脅威を感じて予備隊を投入した結果、決戦に必要な兵力を集中することができなくなった。
 第二・四軍は、9月2日、大打白虎から揚家林子の線に進出して攻撃に努めたが、突撃にいたらず日没となった。 3日更に攻撃を続行したが、この日もなかなか進展せずに苦戦していたところ、夕刻からロシア軍が退却を始めた。 日本軍はこれを追って4日朝までに遼陽付近一帯の陣地を占領したが、おりから増水した太子河の橋梁が破壊されたので、右岸に進出することはできなかった。
 
 クロパトキン大将は、日本軍が各方面で苦戦していた9月3日朝、遼陽南側の守備隊に退却を命じた。 遼陽の守備部隊は、3日の日没とともに退却を開始、4日朝までに太子河右岸に移り、一時烟台(えんだい)付近に集結した後、9月7日頃には奉天に集中を完了した。
 
 日本軍の満州軍総司令部は、9月2日、沙河に進出して作戦を指導した。 9月4日、各軍はそれぞれ当面の敵を撃破したが、連日の激戦で人馬・資材・弾薬等の欠乏がひどく、追撃の実行は困難と考えられたので、各軍を遼陽付近に停止させ、態勢を整理し、爾後の北進を準備させることにした。 9月7日、総司令部は遼陽に入城した。
(4)会戦の結果
 
 遼陽会戦は、ロシア軍の兵力の優勢、高梁(こうりゃん)による視界不良等により、日本軍は非常に苦戦したが、攻勢の意志を堅持して最後には勝利を得ることができた。 特に、第一軍が太子河右岸に迂回進出し、優勢な敵の逆襲を支えとおし、敵の左側背に脅威を与えたことは、クロパトキン大将の統率を混乱させ、退却の原因を作った。
 
 しかしながら、兵力の損耗、弾薬の欠乏、後方施設の不備等により、果敢な追撃を実施し得なかったため、ロシア軍に徹底的打撃を与えることができず、ほど近い奉天において再編成の余裕を与えてしまった。 この結果、日本側が密かに期待していた戦争終結のきっかけは失われ、決戦は翌春の奉天会戦に持ち越されることになった。

(平成10年9月19日掲載、平成16年12月15日修正)

11 沙河の会戦

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