明治三十七八年戦役(日露戦争)

11 沙河の会戦

1 全 般

 遼陽会戦に敗れて退却したロシア軍は、ロシア本国からの大量の増援を受け、追撃しなかった日本軍に対する反撃を企図した。明治37年(1904年)10月2日、クロパトキン大将は、全軍に攻撃開始を下令した。これに対する日本軍はその対応に後れをとったが、やがて反撃に転じ、右翼の第一軍を旋回軸として第四軍・第二軍をもって包囲的に攻撃し、敵を撃退した。16日には各軍とも沙河左岸に進出して会戦を終えた。しかしながら、日本軍は兵力と弾薬の欠乏により、ロシア軍に徹底的な打撃を与えることはできなかった。

2 会戦前の状況

 遼陽会戦で決着がつかなかったので、日本側では、次の決戦場はハルピン付近になるであろうと判断した。そこで、奉天付近に集結しているロシア軍を北方に撃退し、奉天〜進民府の線に進出して将来の作戦を準備することに決し、明治37年(1904年)9月16日遼陽付近から行動を起こし、烟台炭坑から善庄子付近に至る線に展開して北進を準備した。
 
 クロパトキン大将は、遠く北方に後退して再起を図る計画であったが、日本軍が追撃してこないので、奉天付近にとどまって日本軍の攻撃に備え、更に準備を整えて攻勢に転ずるに決し、9月8日その準備を下令した。9月17日には、日本軍の重点が左翼に指向されると判断、渾河(こんが)河畔で決戦防御することを計画した。これより先、ロシア帝国政府中央では、日露開戦以来のクロパトキン大将の統率に批判的な空気が生じ、満州軍を2分して第2満州軍をグリッペンベルグ大将に指揮させる処置をとった。この処置を不満とするクロパトキンは、当面の日本軍が劣勢で、しかも疲労のひどいことを知り、日本の第二軍が到着する前に攻勢をとり、これを太子河岸に撃退し、旅順を救援しようと考え、9月28日、そのための部隊配置をとった。
 
 9月中旬以来、ロシア軍に攻勢転移の兆候が見えたので、9月28日、日本軍は第一軍の左翼を第四軍に割り当て、第一軍には右翼後方に強力な予備隊を控置させた。10月初頭には、遼陽会戦の損耗補充も終わり、更に10月6日から新たに第8師団が大連湾に上陸し始めた。
 
 10月7日正午、満州軍総司令部は、ロシア軍が攻勢に転じたものと判断し、当面兵力を結集し、機を見て攻勢をとる決心をし、同日13時に次の命令を下令した。
(1)第一軍は大南溝付近から烟台炭坑にわたる間に兵力を集結せよ。
(2)第二・四軍は、現守備線後方の極めて狭小な地域に兵力を集結せよ。
(3)後備歩兵第三・十一旅団、砲兵第一旅団司令部及び砲兵第一連隊を総司令部の直属とする。
(4)第八師団は、上陸するに従い、鉄道により遼陽に前進せよ。
 
 10月7日、第一軍司令官は、最右翼の梅沢旅団を上平台子から大岑(だいしん)、土門子岑の線に後退させ、各隊に新陣地を構成させた。
 
 10月8日夜から9日にかけ、レンネンカンプ兵団は、本渓湖を攻撃し、その一部は太子河左岸に進出した。本渓湖と橋頭には日本軍の多量の補給品が集積してあり、その守備兵力は微弱であった。第一軍は第十二師団主力に本渓湖を、騎兵第二旅団に橋頭の救援を命じた。
 
 第二軍と第四軍は、10月9日まで旧陣地にあった。

3 沙河会戦

日本の満州軍総司令部は、敵の準備未完に乗じて攻勢に転ずるに決し、10月9日20時、次の命令を下した。
 
(1)第一軍は、第十二師団及び梅沢旅団に下右橋子付近の的を攻撃させ、軍主力は第四軍の五里台子進出に伴い前面の敵を攻撃して奉集堡に向かい前進せよ。
 
(2)第四軍は、10月10日早朝行動開始、前黄花甸・孤家子付近の敵を攻撃せよ。
 
(3)第二軍は、第四軍の左翼に連携し、板橋堡・太平庄の線に向かい前進せよ。
 
 第一軍右翼は約2コ軍団の敵の攻撃を受けて苦戦したが、よく陣地を死守した。軍主力は、11日から攻撃を開始し、12日馬耳山・上下焼達溝付近の高地を奪取した。第四軍は、10日早朝から攻撃を開始、12日紅宝山の前面に達した。
 
 日本軍は、ロシア軍の中央突破を企図し、ロシア軍は日本軍の右側包囲に努め、沙河左岸一帯に激戦を展開したが、13日には戦勢は日本軍の有利に傾いた。14日、日本軍は沙河に向かって追撃に移った。15日、第一軍と第四軍正面の敵は退却を始めたが、第二軍正面の敵はなお激しく反撃し、16日には万宝山において日本軍が敗れる場面も起こった。しかし、17日以降、ロシア軍の活動は衰え、一方日本軍は弾薬不足のため追撃を断行することができず、爾後両軍は沙河をはさんで陣地を構築し、対陣したまま冬を迎えることになった。

12 旅順要塞の攻略