明治三十七八年戦役(日露戦争)

12 旅順要塞の攻略

1 攻撃開始前の状況

 (1) 旅順要塞の状況

   旅順要塞は、ロシア軍が、太平洋艦隊の最大の根拠地とするため、明治31年(1898年)に清国から租借権を得て占領して以来、8年の歳月をかけ、セメント20万樽を用いて築城した永久要塞である。各堡塁まで全て「ベトン」(コンクリート)で練り固められ、これらは地下道で結ばれている。百数十門の重砲を始め、配備火器は強力であり、日本軍には少数しか配備されていなかった機関銃も多数配備されていた。
 
   陸正面の本防御線は、東北、西、北の3正面に区分され、白銀山、東鶏冠山、二竜山、松樹山、椅子山、太陽溝高地等の線である。大孤山・小孤山、水師営南側、203高地等には前進陣地があった。(203高地は、旅順港内を一望に観測できる緊要地形であったが、前進陣
地にすぎず、開戦当初はまだわずかな応急陣地があっただけである。)
 
   しかし、大本営・陸軍は、旅順要塞が極めて強化されていることを認識していなかった。旅順攻略が陸軍の当初の計画になかったため、非常に情報量が少なく、ロシア軍の厳重な秘匿もあって、開戦まで日本軍はほとんど要塞に関する内部情報を得ることができなかった。
 
   明治37年7月末、この要塞内に立てこもったロシア陸軍は、ロシア関東軍司令官ステッセル中将を長とし、要塞備砲350門を含む約42,000名であった。

 (2) 日本軍の攻撃準備

   日露開戦前の陸軍の計画には「旅順攻略」はなかった。陸軍は、満州中央部でのロシア軍との決戦を考えていたのである。従って、遼東半島の先端部にある旅順には大した戦略的価値を認めていなかったのである。
 
   旅順の即時攻略を求めたのは海軍であった。旅順港にはロシア太平洋艦隊が停泊しており、海軍にはこれが脅威であった。やがて、本国からバルチック艦隊が来援し、太平洋艦隊と合流すれば日本の連合艦隊は撃滅される可能性があった。そこで、開戦とともに旅順港封鎖を試みたが失敗に終わった。そのため、陸軍によって旅順要塞を攻略し、陸上から旅順要塞を砲撃するしかないと考え、陸軍に旅順攻略の要請をしたのである。海軍の要請を受け、大本営は、第2軍を分割して第3軍を新たに編成した。   
 
   しかし、日本軍はこのときまでに近代要塞を攻撃した経験がなかった。日清戦争時、清国軍が旅順に築いた防御陣地を1日で攻め落としたことはあるが、このときは野戦築城に毛が生えたという程度のものであった。ところが、大本営は、「1日で旅順を攻め落とした」という先入観を強くもち、当時の旅団長であった留守近衛師団長乃木希典(のぎ・まれすけ)中将をあっさりと新編の第3軍司令官に補任(明治37年5月2日)した。乃木大将にとって、第3軍司令官への補任は悲運の始まりであった。
 
   第1の悲報は、大陸へ渡るために広島の宿舎に入ったときに訪れた。東京の自宅から、長男乃木勝典(かつすけ)中尉戦死の報があったのである。ロシア軍の機関銃で左下腹部を撃たれ、出血多量で死亡したとのことだった。寺内正毅陸軍大臣からの弔電に対して「大満足」であるとの返電を打電し、幕僚たちにも悲嘆を漏らさなかった。6月1日、乃木軍司令官は宇品港を出発、6日、金州湾に上陸、この日、大将に任ぜられた。   
 
   第3軍は6月26日から逐次旅順周辺の前哨陣地を奪取し、7月30日には鳳凰山一帯の高地を占領して、ロシア軍を要塞内に圧迫し、攻囲陣地の構築に着手した。
 
   この間、第3軍には、第9師団、後備歩兵第1旅団等が増強され、従来の第1師団、第11師団と合わせて兵員約5万、砲約380門になった。

2 攻撃の実施

 (1) 第1回総攻撃(明治37年8月19日〜24日)

   当時、バルチック艦隊の極東到着は明治37年10月頃と判断されたので、連合艦隊の整備期間を逆算して、迅速な攻略が要求された。これに基づき、強襲の方針が定められ、攻撃正面には二竜山砲台〜東鶏冠山砲台の中間が選定された。
 
   この計画に従い、8月7日から15日までに大孤山・小孤山、東北溝、李家店、干大山(115高地)にわたる前進陣地を攻撃奪取した。
 
   第3軍は、8月19日午前6時、砲兵部隊をもって攻撃準備射撃を開始した。砲撃は8月20日も続けられ、その効果に自信を持った軍司令部は、21日に歩兵部隊による総突撃を命じた。 しかし、甚大な被害を受けているはずのロシア軍堡塁はほとんど健在で、遮蔽物のない暴露地帯を前進する日本軍は、緊密に相互支援する各砲台の火力にさらされ、将兵はバタバタと倒れていった。 連続6昼夜にわたる力攻は参加兵力50,700名中、約31%にあたる15,800名の死傷者を出し、24日午後4時、乃木司令官は攻撃中止を命じた。 この攻撃の戦果は、第9師団がわずかに東西盤竜山堡塁を奪取したにとどまった。

 (2) 第2回総攻撃(明治37年10月26日〜11月1日)

   第1回総攻撃における強襲の失敗で、乃木司令官と第3軍司令部は旅順要塞の手強さを初めて知った。 日本軍の砲撃は、山肌の土砂を吹きとばすばかりで堡塁本体は大して被害を受けない。 全面に鉄条網が張られ、その内側には深い壕が掘られ、その奥にある砲座は死角がないように据えられていた。
 
   そこで第3軍は、正攻法によることに決し、敵陣近くまで塹壕を掘り進めさせるとともに、28サンチ砲を内地から運搬し、9月1日から攻撃準備に着手した。 この頃、海軍からは「西北正面の203高地を占領してほしい」との要請が来ていた。 標高203メートルのこの高地は要塞の主要部からは外れているが、旅順港を一望できる要地であった。 ここを観測点として砲撃すれば旅順港内のロシア艦隊は全滅できるはずであり、そうすれば旅順要塞攻略の目的は達成できるのであって、敢えて東鶏冠山などの厳重な防御を突破する必要などはじめから全くなかったのである。 ところが、伊地知第3軍参謀長はこれを拒否し続けた。 あくまでも、東北正面の主要要塞を陥落させることに固執し、海軍が要望した203高地方面には兵力の一部を割いただけであった。
 
   攻撃陣地を進める間、ロシア軍がしばしば出撃してきたため、攻撃準備がなかなか進まなかったが、9月19日には203高地、水師営付近(以上、第1師団)、竜眼北方、盤竜山北(以上、第9師団)、東鶏冠山北、同山(以上、第11師団)の各堡塁に対する攻撃を開始した。しかし、これらの攻撃も、22日に至って、水師営付近、南山坡山及び竜眼北方高地を得たのみで攻撃が行き詰まった。
 
   10月26日、第2回総攻撃を開始したが、11月1日までに、鉢巻山、一戸(いちのへ)堡塁、瘤山(こぶやま)を奪取したのみで停滞した。第2回総攻撃に参加した日本軍は44,100名で、うち3,830名の戦死者を出し、ロシア軍陣地前面には日本兵の死体が累々と横たわることになった。
 
(3) 第3回総攻撃(明治37年11月26日)
   11月3日、第3軍に第7師団と工兵3コ中隊が増強された。
   当時、沙河方面のロシア軍は逐次兵力を増強して攻勢に転ずる形勢にあり、すでに10月15日にはバルチック艦隊リバウ出港の情報も入っていたので、海軍の焦りは激しさを増した。旅順攻略は急を要し、11月22日には勅語が下された。
 
   しかし、第3軍は、あくまで初期の計画、すなわち二竜山、東鶏冠山、松樹山といった東北正面の最強の堡塁群を攻略することにこだわった。この頃には、28サンチ榴弾砲という沿岸要塞砲が内地から送り込まれており、この砲で堡塁を粉砕しようとした。 10月26日早朝から29日の間、28サンチ砲で激しい砲撃をおこない、30日に歩兵が突撃を開始するが大きな戦果を挙げることなく攻撃は中断された。11月26日、第3軍は、望台一帯の高地に向かって攻撃を開始したが、各師団の突撃はことごとく撃退され、損害のみが増すばかりであった。 決死隊である「白襷隊(しろだすきたい)」約3,100名も編成され、夜間の正面攻撃を敢行したが、結果は約2,300名が戦死し部隊は壊滅した。
 
   ここに至って、乃木大将は、11月27日ようやく主攻撃目標を203高地に変更した。

 (4) 203高地攻略(明治37年11月27日〜12月5日)

   11月29日、乃木司令官は、疲弊した第1師団に替えて第7師団を投入した。
 
   しかしそのころ、満州軍総参謀長児玉源太郎大将は、乃木大将による旅順攻略の遅滞に業を煮やし、自ら指揮をとるべく、満州軍総司令官大山巌元帥の第3軍の指揮権委任状を持って29日総司令部を発っていた。
 
   11月31日、第7師団が203高地をいったん占領するが、またすぐにロシア軍に奪回されてしまった。この日、金州駅において「203高地占領」の報告を受けた児玉大将は大喜びしたが、翌12月1日夜明け頃、大連駅に到着したときには「203高地が敵に奪回された」との報を受け激怒した。 すぐに第3軍司令部に向かった児玉大将は乃木大将と会見、第3軍の指揮権を委譲させた。なお、この日、乃木大将の次男保典(やすすけ)が戦死している。
 
   児玉大将は、まず標高1,200メートルの高崎山に登り、ここから203高地を見下ろして日本軍歩兵部隊を撃退している主な敵の砲台を看破した。それは、203高地自体の砲台ではなく、その周辺部にある諸砲台であった。 そこで、直ちに重砲兵部隊を高崎山に移動させた。 これはかなり大規模な陣地変換であり、通常ならかなりの時間を要するものであったが、豊島少将を叱咤して二十数時間で完了させてしまった。 12月4日から、28サンチ榴弾砲をはじめとする重砲兵部隊はロシア軍の主要砲台を徹底的に砲撃した。28サンチ榴弾砲だけでもこのとき2,300発を射撃した。
 
   これにより、ロシア軍の砲台は12月4日のうちにほぼ沈黙し、12月5日午前9時、歩兵部隊が突撃を敢行した。その日のうちに203高地頂上を占領し、翌日午前8時にはついに全山を完全に占領した。
 
   第3回総攻撃〜203高地占領までの間、日本軍参加兵力64,000名中、17,000名の死傷者を出した。   

 (5) 旅順要塞の降伏

   203高地が確保されると、12月5日午前9時には砲兵観測所を山上に推進し、28サンチ砲をもって旅順港内の軍艦や港湾施設に砲撃を加えた。 砲撃の効果は直ちに現れ、12月6日までに戦艦ボルタワ以下の艦艇が被弾炎上または座礁し、旅順艦隊は全滅した。 同時に各堡塁の抵抗力は急激に低下し、18日には東鶏冠山堡塁が、28日には二竜山堡塁が、30日には松樹山堡塁が陥落した。 
 
   翌明治38年1月1日、一戸少将が指揮する第9・第11師団の一部は、東部の要衝である望台(185高地)一帯の高地を占領した。 そして、日本軍がまさに旅順市街に突入しようとしていた午後1時頃、白旗を掲げたロシアの軍使が第1師団の歩兵第3連隊の前哨点に現れ、降伏文書を提出した。

3 旅順要塞攻略の結果

   「旅順開城規約」は、明治38年1月2日、調印された。 5日には、水師営の崩れ残った農家で乃木大将とステッセル中将の会見がおこなわれた。 その情景は、佐々木信綱博士の作詞による「水師営の会見」として文部省唱歌に収められた。 1月13日、日本軍は旅順に入城した。
 
   旅順攻略戦は、明治37年5月末に第3軍が編成されて以来7ヶ月余を費やし、日本軍は参加兵力のべ13万人(後方部隊を含む)、砲393門で、戦死15,400名、負傷44,008名の損害を出した。日本軍が得たロシア軍捕虜は25,000名である。
 
   旅順の陥落により、連合艦隊はバルチック艦隊に備えて整備や訓練をおこなう余裕を得た。 また、満州軍は、次の奉天会戦に第3軍を投入できるようになった。
 
   当初、日本軍は、大本営から現地の第3軍司令部に至るまで、8月末には旅順攻略を完了するものと考えていたが、実際はその期待を裏切った。 その主要な原因としては、下記の事項があげられるだろう。

    ● 要塞内部の情報不足

    ● 永久築城に対する認識不足及び攻撃準備の不足

    ● 日清戦争における1日での攻略の経験による先入観

    ● 203高地の緊要地形としての価値の看破が遅かったこと 

      この戦いは、将来戦における科学技術の重要性に関する一大警鐘でもあった。

(平成11年6月20日更新)


13 黒溝台会戦

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