明治三十七八年戦役(日露戦争)

13 黒溝台会戦

1 血の日曜日事件

   明治38年(1905年)1月22日、ロシア帝国の首都ペテルブルグ(現在のサンクト・ペテルブルグ。旧レニングラード)で、数万の労働者らが宣教師ガポンを先頭に立て、「戦争反対」等を叫びながら皇帝の住む冬宮に請願デモをおこなった。しかし、宮廷警護の軍隊がこれに発砲して多数の労働者を射殺、デモを鎮圧した。これを「血の日曜日事件」という。
 
   この事件により、ヨーロッパにおけるロシア帝国の威信は失墜し、またこの騒動に乗じた参謀本部附欧州駐在官明石元二郎大佐の巧妙な謀略もあって反政府運動が一挙に盛り上がり、この事件は後日のロシア革命の口火となった。

2 黒溝台会戦   

   ロシア軍は、明治38年(1905年)1月上旬、ミシチェンコ騎兵挺進隊を営口方面に南下させるとともに、1月下旬大部隊をもって日本軍左翼を攻撃してきた。 攻撃に任じたのは、新着任グリッペンベルグ大将の指揮するロシア第2軍約10万であった。この攻撃は、ロシア本国方面の情勢に敏感なグリッペンベルグが勝利を急ぎ、クロパトキン大将の意見を無視して強行したものといわれている。 このためか、本会戦間、クロパトキン指揮下の東部戦線のロシア軍の動きは極めて不活発であった。
 
   1月25日、ロシア第2軍は、黒溝台に殺到し、黒溝台守備隊は、古城子に後退した。 大山満州軍総司令官は、直ちに第8師団(師団長:立見中将)にロシア軍の撃退を命じた。 第8師団は、26日、黒溝台に向かって攻撃を開始したが、ロシア軍は刻々兵力を増強し、師団の後方に進出する危険が生じた。 大山総司令官は、27日から第5師団、第3師団、第2師団を急派し、「臨時立見軍」を編成してこれに対処させた。
 
   臨時立見軍は、約2倍のロシア軍に対して激闘を3昼夜続け、29日、ロシア軍を撃退した。
 
   本会戦は、日本軍にとって戦争間最大の危機であったと言われる。 もしロシア軍が全力を挙げて攻撃に転じていれば非常な苦況に陥ったと考えられるが、前述のとおり、第1軍・第4軍の正面にいたクロパトキン軍が不活発であったため、この方面の兵力を抽出してグリッペンベルグ軍に対処できたのである。
 
   この会戦の後、グリッペンベルグはクロパトキンと不和を生じ、本国に帰ってしまったといわれる。

(10.10.19)


14 奉天会戦

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