明治三十七八年戦役(日露戦争)

14 奉天会戦

1 永沼挺身隊鉄橋爆破(明治38年2月12日)

  日露戦争開戦2年目の明治38年(1905年)、永沼中佐指揮下の騎兵2コ中隊(176騎)は、遠くロシア軍の背後に潜入し、2月12日未明、東清鉄道線長春駅南方の新開河鉄橋を爆破した。 その後追跡してきた優勢なロシア騎兵を撃破して砲1門を捕獲、敵中を突破して無事に帰還を果たした。 極寒の蒙古を経由しての約2,000キロ、75日間の挺進行動は、奉天会戦直前にロシア軍に約2個師団半の兵力を後方に引き抜かせ、さらに長春に近い東清鉄道の鉄橋爆破は敵地進入線の有力な証拠として、後の講和交渉において日本側に有利な条件を提供した。

2 奉天会戦(明治38年2月26日〜3月10日)

 (1) 開戦前の状況

  明治38年(1905年)に入り、1月初頭に旅順要塞が陥落し、1月末には黒溝台攻略に失敗したロシア軍は、解氷期以前に日本軍に打撃を与えようと考え、2月21日攻撃前進を命じた。 当時奉天付近に集結していたロシア軍は約32万で、兵力は圧倒的に優勢であった。 そこでロシア軍は、今回も日本軍の左翼を包囲しようとした。 東方(日本軍の右翼)は、地形上大部隊の運用に不適だったからである。 クロパトキン大将は、決戦の内意を固め、「退却する者は日本軍の弾丸に倒れず退却を罰する剣の錆となるであろう。」といって、将兵を督励した。 しかし、この攻撃企図は、日本軍の先制攻撃によって初動に砕け、2月24日には攻撃を断念して防勢に転移してしまった。 
 
  ロシア軍は、時とともにロシア本国からの増援部隊が到着していたが、日本軍は第3軍を合わせても使用可能兵力は25万であり、当時の国力としては動員の限界であった。遼陽会戦で最後の決をきめえなかった日本軍は、今度こそ決戦に及ぼうと1月22日に下記の攻撃計画を定めた。
 
   ア 第1軍は、ロシア軍の左翼を攻撃する。
   イ 第2軍は、官立堡付近でロシア軍の右翼を攻撃する。  
   ウ 第3軍は、遼陽西方太子河両岸地区に開進し、渾河、遼河の中間地区を北進、遠くロシア軍の右側背を脅威する。
   エ 第4軍は、現在の陣地を守備し、攻撃を準備する。
   オ 総予備隊は、当初東烟台付近に開進し、戦況の進展に伴って、次第に第2軍の左翼後方に前進する。
 
   なお、この作戦には、1月12日に新編成された鴨緑江軍(司令官:川村景明大将、後備第1師団、後備第16旅団基幹。韓国駐剳(ちゅうさつ)軍司令官の指揮下におかれた。)と協同することになり、2月9日には協同作戦の調整を終わっている。

 (2) 会戦第1期(2月26日〜2月28日)

   2月27日、第1軍と鴨緑江軍はそれぞれ前面のロシア軍を攻撃したが、ロシア軍もこれに徹底して応戦し、攻撃は進展を見なかった。
 
   第3軍は、2月27日朝前進開始、28日夕方までに黒溝台西北西の後辺外から珍子崗(ちんしこう)の線に進出した。 この間、第2軍・第4軍は、砲撃戦をおこなって企図の秘匿に努めた。
 
   ロシア第2軍は、日本軍の左翼に対して攻勢に出ようとしたが、27日にはまだ第3軍が清河城方面に迂回しているものと誤認し、その対処のために攻勢を中止してしまった。 28日になって、黒溝台方面から奉天西方に出現した日本軍が第3軍であろうと判断し、これを撃退するため予備軍を奉天付近に集結した。

 (3) 会戦第2期(3月1日〜3月7日)

   日本軍は、明治38年3月1日から本格的な攻撃に転じた。
 
   鴨緑江軍は、依然攻撃を続行したが、地形の峻険とロシア軍の激烈な抵抗により、この間ほとんど戦況の進展はなかった。
 
   第1軍方面でも、この間はほとんど進展はなかったが、7日にいたってロシア軍退却の兆候を察し、追撃を準備した。
 
   第4軍は、3月2日から攻撃前進を開始し、7日までに左翼方面で若干の進出を見た。
 
   第2軍は、3月1日から攻撃前進を開始し、7日には郎家堡の線に進出した。
 
   第3軍は、3月1日以来3縦隊となって北進を続け、7日には転湾橋〜造化屯〜道義屯の線に進出した。すでに奉天まで十数キロの地点
である。またこの日、秋山支隊は、遠く全盛堡付近まで進出した。
 
   ロシア軍はこの間、第3軍の包囲行動を阻止しようと、再三にわたって反撃を試みたが、左翼方面の鴨緑江軍、第1軍の猛攻に対しても増援部隊を送ったために、兵力が分散して第3軍に対する反撃は不徹底に終わった。 3月7日、右翼近くに第3軍の進出を許し、クロパトキンはついにこの日北方への退却を決心した。

 (4) 会戦第3期(3月8日〜3月10日)

   満州軍総司令部は、3月8日、ロシア軍が退却に移ったことを知り、全軍に追撃命令を下した。
 
   3月8日、各軍は当面のロシア軍に攻撃を開始、第2軍と第3軍はロシア軍の掩護部隊の激しい抵抗を受けて攻撃がなかなか進展しなかったが、鴨緑江軍、第1軍及び第4軍は退却するロシア軍を捕捉、攻撃した。 3月10日には攻撃が遅滞していた各軍も奉天に迫った。 そして、日本軍は、3月10日夜に入ってロシア軍を完全に破り、ついに奉天を占領した。

 (5) 奉天会戦の結果

   奉天会戦は、兵力劣勢な日本軍が包囲を敢行して勝利した戦いであるが、最後に包囲を完成することができず、多くのロシア軍部隊の離脱を許してしまった。 人員、火砲、弾薬の不足がその致命的原因であった。
 
   しかし、両軍合計57万に及ぶ大軍の戦闘は、史上初めての大会戦であり、世界の兵学界に大きな影響を与えた。 本会戦で日本軍の損害は7万で、ロシア軍の損害は9万であった。
 
   クロパトキン大将はこの会戦の後に司令官を解任され、日露戦争における陸戦はこの会戦をもって終了した。 しかし、クロパトキン大将は、元々、ハルピン付近に後退し増援部隊と合流して後方連絡線の延び切った日本軍を撃破する構想であったので、奉天で決戦して戦争終結のきっかけをつかもうとした日本軍は戦略的に失敗だったという見方もある。 実際、ロシアは奉天会戦で敗れたといっても戦争に負けたという意識などは当然なく、従って即時講和には至らなかったのである。
 
   なお、後に、奉天を占領した3月10日は「陸軍記念日」になった。

(10.10.24)


15 その他の支作戦

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