明治三十七八年戦役(日露戦争)

15 その他の支作戦

1 北韓における作戦

  明治37年春以来、ウスリー方面のロシア軍は、韓国東北部の咸鏡道に侵入していた。 日本側では、早くからこの敵を国境外へ排除し、あるいは更に浦塩(うらじお。ウラジオストックのこと)まで進撃してこれを占領する計画が論議されたが、満州の主作戦重視のために見送られていた。
 
  韓国駐剳軍は、奉天会戦の終わった明治38年5月以降、増加された後備第2師団を該当方面に行動させ、9月1日会寧まで進出したが、講和条約の成立によって作戦を終了した。

2 樺太における作戦

  樺太に対しても、日本には早くからこれを攻略する案があったが、北韓作戦と同じ理由で見送られていた。
 
  奉天開戦直後の明治38年3月31日に動員された第13師団は、日本海海戦が終わり、戦争終結が近く予想されるにいたり講和条件を有利にするために樺太占領に投入されることになった。
 
  日本海海戦から約1ヶ月半後の7月7日、第13師団は一部を樺太南部の大泊付近に上陸させ、師団主力は7月24日樺太西部のアレキサンドロフ(アルコワ)付近に上陸し、所在のロシア軍を駆逐して、7月28日、在樺太ロシア軍は降伏し、8月1日全島占領を完了した。

(10.10.25)


16 日本海海戦

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