明治三十七八年戦役(日露戦争)

16 日本海海戦

日本海海戦(明治38年5月27〜28日)

   極東海域の制海権を奪回し、陸軍の劣勢挽回を企図したロシア帝国は、バルチック艦隊をもってロジェストウェンスキー少将(航海中に中将に昇進)を司令長官とする「太平洋第2艦隊」を編成し、明治37年10月15日、リバウ港を出発、極東に向かわせた。
 
   その後、旅順艦隊(明治37年4月30日に「太平洋第1艦隊」と改称された。)が全滅したので、急遽「太平洋第3艦隊」が増派されることになり、明治38年2月15日にリバウ港を出発、5月上旬カムラン湾において先行の太平洋第2艦隊に合流した。両艦隊を合わせた勢力は、戦艦8(新型戦艦5隻を含む)、装甲巡洋艦3、装甲海防艦3を基幹とする50隻であり、両艦隊は5月14日カムラン湾を出発、5月27日戦闘を予期しつつ対馬海峡に進入した。
 
   一方、明治37年12月上旬以来、旅順監視の任から解放されていた日本海軍の聯合艦隊は、本国から回航されるロシア艦隊を迎撃するため、修理・訓練・哨戒等を着々と進めていた。明治38年5月27日早朝、哨艦信濃丸からの「敵艦見ゆ」の報告に接して、全艦出動した。
 
   カムラン湾を出発したロシア艦隊が目標とするのはウラジオ港に決まっていたが、日本海の朝鮮海峡経由なのか太平洋側の津軽海峡経由なのかは判断できない状況であった。 しかし、東郷平八郎聯合艦隊司令長官は、断固として対馬海峡で迎撃する態勢をとった。
 
   聯合艦隊とロシア太平洋第2・3艦隊とは、戦力はほぼ伯仲、詳しく見れば、遠戦砲力はロシア側が有利、近戦砲力は日本側が有利であった。 しかし、日本側は訓練や士気がロシア側よりも優越していた。
 
   5月27日昼過ぎ、両艦隊は隠岐島西方において互いに敵の姿を認めた。 東郷司令長官が旗艦三笠のマストに「Z旗」を掲げたのは13時55分であった。 戦闘は、14時08分、ロシア艦隊の発砲により開始された
が、15時頃には日本艦隊の敵前大回頭の効果が現れ、大勢が決した。
 
   5月27日夜、連合艦隊は駆逐隊・水雷戦隊による攻撃を続行、28日、再び主力艦隊による追撃を敢行し、約1日半の戦闘によりロシア艦隊を殲滅した。 27日に海峡に現れたロシア艦隊は38隻であったが、ウラジオに入港できたのは巡洋艦1、駆逐艦2にすぎなかった。 日本側の戦果は、撃沈17、捕獲5、抑留2、捕虜6,106名(司令長官ロジェストウェンスキー中将を含む)であり、他に戦死者約5,000名の損害を与えた。日本側の損害は水雷艇3、死傷者約700名であった。 
 
   日本海海戦での勝利は、奉天会戦の勝利と相まって、ポーツマス講和会議への道を開くことになった。
 

(10.10.29)


17 戦争の終結

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