明治三十七八年戦役(日露戦争)

1 戦争の背景

ロシアの多年の念願は、東アジアに利権を獲得して満州をその勢力下におくことであった。 日本が日清戦争によって獲得した遼東半島を清国に返還させた(三国干渉)のもそのためである。 ロシアはその後、満州における鉄道敷設権を獲得、旅順を占領し、更に、遼東半島南部の租借に成功、明治33年(1900年)には、北清事変のどさくさに乗じて大軍を投入して満州全土を占領し、事変が収まった後もそのまま居座って撤退しなかった。

日本・イギリスなどの抗議により、明治35年に第1期撤兵を実施したが、翌年の第2次撤兵は実施せず、それどころか兵力や要塞の増強を開始した。 その上ロシアは、韓国(1897年、朝鮮は「大韓帝国」と改称した)にも勢力を拡大しようとして、まずその完全中立を要求してきた。

日本は、強大なロシアの勢力が朝鮮半島に及ぶことを特に国防上の危機と感じ、またイギリスはロシアの満州・韓国に対する進出が自国の権益を脅かすものと感じた。 そこで、明治35年(1902年)2月、「日英同盟」が締結されたのである。

日清戦争によって確保した韓国の独立が脅かされ、朝鮮半島をもって日本独立の保障地とする国是が侵害される危険を感じた日本政府は、明治36年(1903年)7月ロシアに対して、満州撤兵の履行、満州・韓国における相互権益の承認等について交渉を開始し、紛争回避に努力した。

これに対してロシアは誠意を示さず、むしろ積極派のアレキセーフ海軍大将を極東総督に任じて極東の軍事・外交・行政を委任し、9月には清国に撤兵延期を申し入れて逆に兵力を増強し、武力をもって日本を屈服させようとした。

徐々に情勢が不利に傾いていくのを察した日本は、明治37年(1904年)2月4日ロシアとの交渉を打ち切り、5日には「最後通牒」を発するとともに、動員を下令した。 8日には、双方の使節がそれぞれの首都を離れ、国交が断絶した。 ロシアが宣戦布告したのは2月9日、日本は10日であった。

(10.6.11作成)


2 両国の軍備

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