明治三十七八年戦役(日露戦争)

5 開戦〜朝鮮半島の確保

1 開 戦

明治37年(1904)1月8日、ロシア帝国は、極東及びシベリアの軍隊に動員準備を下令し、鴨緑江畔の兵力を増強した。 同年2月3日には、ウラジオストックの日本人が退去を命じられ、4日には旅順のロシア艦隊が出港して姿を消したという情報が届いた。 情勢の切迫を感じた日本は、一部の陸軍部隊を韓国に急派して先制するに決し、同日9時30分韓国臨時派遣隊の出動を電命し、5日にはロシアに「最後通牒」を発し、同日16時に第1軍に動員を下令した。

韓国臨時派遣隊(隊長:木越安綱少将、歩兵4コ大隊基幹)は、2月5日16時、長崎県早岐から乗船し、2月8日仁川に上陸してただちに京城(ソウル)に入った。

聯合艦隊(司令長官:東郷平八郎中将)は、2月6日佐世保を出港、一部でウラジオストック艦隊に対し対馬海峡を警戒させ、別の一部をもって仁川へ陸軍部隊の護送を実施させ、主力は旅順に向かった。 主力は8日夜、その駆逐艦をもって港外にあったロシア艦隊に水雷襲撃を敢行、翌9日には主力艦隊で攻撃を加えた。 陸軍護送にあたった瓜生(うりゅう)外吉少将指揮の一隊は、2月9日、ロシア艦2隻を仁川港に追い込んで自沈させた。

2月9日、ロシアが宣戦布告、翌10日に日本が宣戦布告した。 これに伴い、イギリス・フランス・アメリカ・ドイツ・ノルウェー等17カ国が局外中立を声明した。 清国は、満州を除く各省及び内外蒙古の局外中立を声明した。 韓国は当初日露どちらにつくか迷っていたが、2月23日、日本の行動に便宜を与えることを含む日韓議定書に調印した。

2 朝鮮半島の確保

 (1) 旅順港閉塞作戦

明治37年2月8日〜9日、日本艦隊の攻撃を受けた旅順のロシア艦隊はその後港内に籠もって出撃しなかった。 そのため、日本艦隊はロシア艦隊撃破の機会を失ってしまった。 旅順の港口幅は273mだが、両側が浅いため、実際に大型艦が航行できるのは91mに過ぎなかったので、今度はそこに老朽汽船を移動・自沈させて港を閉塞し、乗員はカッターで収容艇まで引き返し救助してもらう、という計画を立案した。 しかし、ロシア軍の砲撃は十分考えられることだったので、まさに決死の作戦であった。

第1次閉塞は2月24日に実施された。 その前日23日夕刻、閉塞隊の汽船5隻は円島東南方20カイリの洋上に集結した。 そのうちの1隻「報國丸」の指揮官は広瀬武夫海軍少佐であった。 広瀬少佐は、艦橋で夕食をとった後、大きな幕を持ち出すと、ペンキでロシア語を書き始めた。 そこには、「私は日本の広瀬武夫である。 今やってきて貴軍港を閉塞する。 ただし、これはその第1回目である。 今後何度も来るかもしれない。」ということが書かれていた。 ロシア駐在武官として赴任していたことのある広瀬少佐には、ロシア人の友人も多かったので、これは挨拶代わりに残していったものらしい。 後に沈没した報國丸を調査したロシア軍はこのメッセージを確認したともいわれる。 しかし、この閉塞作戦は十分な成果を上げることができなかった。

第2次閉塞は3月27日に実施され4隻の汽船を突入させた。 広瀬少佐はこの時は「福井丸」の指揮をとった。 旅順港口に到着して、杉野孫七上等兵曹が船を自沈させるため爆薬に点火しようと船倉に降りていったその時、ロシア艦隊の放った魚雷が福井丸に命中した。 広瀬少佐は乗員を退避用のカッターに移乗させようとしていたところだったが、杉野がなかなか帰ってこないので、船内を3度も探し求めて歩いたという(後に軍歌に歌われた「杉野はいずや、杉野はいずこ」というのはこの時の様子を歌ったものである。 ただし、この話は多分に脚色されているといわれており、実際の広瀬少佐の行動がどうであったかは定かでない。) しかし、捜索をあきらめてカッターに移乗し、カッターが福井丸をわずかに離れた午前3時頃、ロシア軍の弾丸が少佐の頭部を直撃し、一片の肉片を残して戦死した。(享年37才、広瀬少佐は中佐に進級)

その後、第3次閉塞が5月3日に敢行されたが、これもロシア軍の砲撃により失敗した。

しかし、この間日本軍が港外に敷設した機雷により、出撃した旅順艦隊司令長官マカロフ中将が戦死するということなどがあり、ロシア艦隊は更に消極的になり、8月頃まで港内に引き籠もったままであったので、黄海の制海権は完全に日本側の掌中に入った。

(2) 韓国北部への第1軍の集中

第1軍(軍司令官:黒木為髑蜿ォ)の先鋒たる第12師団は、明治37年2月16日から27日にかけて仁川に上陸、京城に集結した後、平壌方面に前進した。

第12師団の掩護下、黒木軍司令官は第1軍主力(近衛師団及び第2師団)を率いて3月11日から鎮南浦に上陸を開始、第12師団を合わせて4月1日までにいったん清川江左岸地区に集結、4月7日から前進を再開して21日義州付近において開進(部隊が戦闘準備のために行軍縦隊からその長径を短縮し、一カ所ないし数カ所に横広の隊形をつくること)を完了し、鴨緑江渡河の準備に移行した。

当時、ロシア軍は、ミシチェンコ少将の指揮する前進騎兵支隊(13個中隊)を韓国に派遣していた。

日露戦争最初の地上戦闘は、このミシチェンコ騎兵支隊と第12師団の騎兵第12連隊尖兵中隊との小戦である。 2月8日仁川に上陸した第12師団先遣隊は、京城を経て悪路に悩まされながら平壌を目指して北上を続け、騎兵第12聯隊先兵中隊は2月28日平壌付近に到達した。 先兵中隊から派遣された将校斥候(後藤中尉以下10騎)が平壌北側七星門付近に至ったとき、ミシチェンコ少将指揮下のコサック騎兵部隊とばったり遭遇した。 双方驚いたが、コサック騎兵は徒歩で逃げ出し、これを見た後藤中尉は射撃を命じ、4名を射殺した。 そして、それら遺棄死体から地図と命令文書を獲得し、貴重な情報資料として爾後の日本軍の作戦遂行に寄与した。

その後、ミシチェンコ支隊は第1軍との接触を保ちながら鴨緑江方面に後退した。

こうして日本軍は、4月中旬までに韓国西北部からロシア軍を駆逐し、韓国を占領するという第1段階の目的を達成することができた。

(10.7.15)


6 鴨緑江の会戦

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