明治三十七八年戦役(日露戦争)

6 鴨緑江の会戦

(1) 在満ロシア軍の配備

日露開戦当時の在満州ロシア軍の配置は下記のとおりだった。
 
○ ミシチェンコ前進騎兵支隊(騎兵13個中隊)・・・・・・・・・・・・・・・・・韓 国
○ 東部支隊(歩兵8個大隊、騎兵4個中隊、砲24門)・・・・・・・・・・・鴨緑江西岸
○ 南部支隊(歩兵8個大隊、騎兵6コ中隊、砲24門)・・・・・・・・・・・ 大石橋・営口・蓋平・海城
○ 貔子窩(ひしか)〜大東溝の間の沿岸監視(騎兵5個中隊)
○ 遼河(りょうが)支隊(歩兵4個中隊、騎兵6個中隊、砲4門)・・・ 遼河河畔
○ 関東州守備隊(歩兵18個大隊、騎兵1個中隊、砲24門)・・・・・旅順付近
○ 軍主力(歩兵16個大隊、騎兵3個中隊、砲48門)・・・・・・・・・・・遼 陽
 
しかし、ロシア軍は、開戦早々の明治37年(1904)2月9日の仁川沖海戦で黄海の制海権を失い、日本軍が遼東半島にも上陸できる状況になったので、ロシア極東総督アレキセーエフは、皇帝の訓令により旅順守備隊の歩兵14個大隊を27個大隊に増強した。
 
開戦当時、ロシア満州軍司令官には臨時にレネウィッチ中将が任命されていたが、3月27日クロパトキン大将が遼陽の司令部に着任し、レネウィッチ中将はウスリー軍管区司令官に転任した。 クロパトキン大将は、明治36年6月に陸軍大臣として日本を訪問したことがあり、日本の軍備が弱小であることを知ったが、一方日本国民の士気の高さや急速な発展速度に感心して帰ったといわれる。 やがて、前陸軍大臣クロパトキンと、前参謀総長大山巌とが、日露双方の満州軍総司令官として戦うことになる。
 
クロパトキン大将は、韓国に上陸した日本軍を4個師団以上と判断し、東部支隊の兵力を増強した。 4月下旬、鴨緑江会戦当時の在満ロシア軍の配置は下記のとおりであった。
 
○ 東部兵団(兵団長ザスリチ中将、歩兵21個大隊半、騎兵22個中隊、砲72門)・・・主力は安東県九連城付近の防衛、一部をもって鴨緑江上流碧潼(へきとう)付近から鴨緑江口・大孤山を経て貔子窩に至る沿岸監視
○ 南部兵団(兵団長シタケリベルグ中将、歩兵24個大隊、騎兵6個中隊、砲70門)・・・大石橋、蓋平、熊岳城
○ 遼河支隊(支隊長コズロフスキー少将、歩兵2個大隊、騎兵10個中隊、砲6門)・・・大湾、遼河沿い地区
○ 総予備隊(歩兵27個大隊、騎兵5個中隊、砲90門)・・・・・遼陽及び海城付近
○ 奉天守備隊(歩兵2個大隊、騎兵半個中隊)
以上の他に関東州守備隊があり、総兵力約8個師団であった。

(2) 会戦の経過

明治37年4月21日に鴨緑江東岸に開進を完了した日本軍(第1軍)は、必勝を期して、対岸の敵情捜索の他、渡河点の調査、野戦重砲の推進、弾薬の十分な集積、架橋、海軍との調整などの諸準備を周到に整えた。
 
5月1日払暁、12サンチ榴弾砲(りゅうだんほう)12門が攻撃準備射撃を開始、3個師団が一斉に攻撃を開始して、9時頃には葦子溝(いしこう)から九連城に至る靉河(あいか)右岸一帯の高地を占領。 14時頃には九連城西方の高地に配備していたロシア軍を撃退し、夕刻には第12師団と近衛師団の一部が蛤蟆塘(こうばとう)付近に進出してロシア軍後衛を包囲殲滅した。 日本軍は、わずか1日で困難な鴨緑江渡河を行った上に、国境のロシア軍陣地を突破して満州に橋頭堡を確保した。
 
日本軍の快勝は、日本軍の士気・練度の高さといった人的戦闘力もさることながら、攻撃準備の周到と砲兵火力の優越が最大の要因である。
 
この勝利により、海軍がすでに獲得している黄海の制海権と相まって、じ後の南満州作戦が有利に展開されることになった。 また、「日本軍が1日で鴨緑江を渡河し九連城も奪取した。」というニュースは世界中を駆けめぐり、困難だった外債募集も容易になった。

(3) 鳳凰城への前進

第1軍は、いったん鴨緑江右岸地区に集結したが、明治37年5月5日には湯山(とうざん)城、5月10日に鳳凰(ほうおう)城、11日には寛甸(かんでん)を占領し、主力を鳳凰城に集結させてじ後の作戦を準備した。

7 遼東半島南部の占領

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