明治三十七八年戦役(日露戦争)

3 両軍の作戦計画

1 日本軍

  ロシア陸軍の総兵力は日本軍の7倍であるが、日本側は、東部シベリアの給養能力と単線のシベリア鉄道の輸送能力から考察して、極東方面に使用できる兵力は25万名前後であろうと見積もり、日本軍が海外に使用できる兵力とほぼ同等であり、少なくとも終始対等の兵力で交戦できるものと考えた。 (※しかし、実際にはロシア軍は100万の陸軍部隊を満州に送って給養しており、敵に関する情報見積の難しさがわかる例である。)

  ロシア海軍は太平洋艦隊のみでは我の70%、バルチック艦隊を合わせると180%になるが、極東に使用できるのはその7分の2以下と見積もった。

 上記の見積を前提に、開戦直前に定められた作戦方針は次のとおりであった。

 @ 3コ師団をもって、敵に先だって韓国を占領する。制海権がまだ全く確保できない場合でもまず1コ師団をもって京城(ソウル)を占領する。

 A 満州を主作戦地とし、ここに陸軍主力を使用し、敵の野戦軍を撃滅するため、まず遼陽に向かって作戦する。

 B ウスリーを支作戦地とし、ここに1コ師団を使用して、敵をこの方面に牽制する。

 C 海軍は、敵艦隊が旅順・ウラジオストックに二分している戦備の未完に乗じて急襲撃破し、極東の制海権を獲得する。

 D 旅順要塞を監視にとどめるか攻略するか、樺太を占領するか否か等は、戦況の推移を見た上で決定する。

  開戦前に作成されていた計画では第1期を鴨緑江以南の作戦、第2期を満州作戦としたが、この第2期作戦については具体的作戦計画がまだほとんど策定されていなかった。 これは、当時の日本が朝鮮半島確保の最後の一線に追いつめられて開戦に踏み切ったことを如実に物語っている。

2 ロシア軍

 元々は、ロシア軍の作戦計画は欧州方面を主体としていたため、極東方面については何も具体的なものがなかった。 そこで、明治34年(1901)、対日作戦の概要が作られ、明治36年になって初めて統一的な作戦計画が作成された。

  日本軍については、上陸して作戦する兵力を約10コ師団と見積もり、当初ウラジオ方面に対しては示威にとどめ、南満州及び遼東半島方面に攻勢をとるであろうが、ロシア艦隊が存在する限り上陸地は韓国沿岸であろうと判断した。

  これに対して、ロシア軍は、ヨーロッパロシア、シベリア、カザフ地区から増援し、南部ウスリーの兵力を節約し、なるべく多くの兵力を遼陽・海城に、一部を鴨緑江岸に集中し、鴨緑江及び分水嶺付近を利用して日本軍を遅滞し、旅順に向かう側背を脅威し、かつこれを北方に誘致する。 この際、日本軍の圧迫が急な場合は決戦をさけて後退し、この間欧州方面から第2次部隊を輸送してハルビン付近に集中して決戦をおこなう、という計画を立てた。 このため、極東軍を次のように配置した。

  (1) 野戦軍

ア シベリア第1・2・3軍団基幹の1コ部隊を遼陽・海城間に配置し、別にそれぞれ有力な一部をもって鴨緑江及び沿海州方面を警戒させる。
 
イ 欧州ロシア、シベリア、カザフ地区から増援されるシベリア第4・10・17軍団及び4コ師団をハルピンに集中させる。
 
ウ 増援部隊が到着したらシベリア4コ軍団をもって独立第1兵団、第10・17軍団及びカザフの4コ師団をもって独立第2兵団を編成する。この際、野戦軍総兵力は歩兵約234コ大隊、騎兵約106コ中隊、砲544門となる。

  (2) 要塞守備(要塞砲を除く)

ア 旅順守備隊: 歩兵16コ大隊、騎兵1コ中隊、砲6門
 
イ ウラジオ守備隊: 歩兵約10コ大隊
 
ウ ニコライエフスク守備隊: 歩兵1.5個大隊

  (3) その他後方地区警備部隊等

   海軍は、太平洋艦隊が全滅しない限り、日本軍の韓国北部または満州への上陸を拘束できると判断した。 また、バルチック艦隊と合して日本艦隊を撃破しようと考えたために保守的になり、行動は消極的になった。
   ロシア軍が圧倒的な大兵力を有しながらその一部しか極東に充当しなかったのは、欧州方面の内外情勢の不安定ということもあるが、日本軍の作戦能力を軽視したのも1つの要因である。 しかも、開戦後たちまちに制海権を失い、至る所に日本軍の上陸を許したため、慌てて当初の計画を変更し、旅順要塞と、ウラジオ要塞を強化し、諸方面に主力軍の集中掩護の処置を講ずるなど、兵力分散と受動に陥ってしまった。

(10.6.13アップ)


4 戦争の経過

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