明治27、8年戦役

(日清戦争)

第2軍の旅順要塞攻略(明治27年11月17日〜21日)

1 戦争の背景

(1) 戦争の要因

 
  日清戦争前後における世界の情勢は、欧米列国の東洋進出と植民地政策による分割の時代という特徴がある。日本は明治維新による国内の大改革により植民地化を免れたが、清国はその領土を侵食され、加えて朝鮮半島に勢力を維持する力を喪失していた。
 
  朝鮮では、宗主国である清国の衰退に乗じて完全独立を勝ち取ろうとする「独立党」の運動が燃え上がった。これに反し、現状の維持を求め清国に依存しようとする「事大党」があり、両者は内政と外交をめぐり互いに抗争していた。
  この戦争は、朝鮮に宗主権を維持しようとする清国と、朝鮮を独立させて直接これと提携して発展の道を開拓しようとする日本との、国策の衝突である。これを戦争にまで発展させたのは、朝鮮に及ぼしうる清国の力の低下と、日本の国力の向上、ならびに朝鮮が自力で収拾できなかった朝鮮国内の混乱である。

(2) 開戦に至る経緯

  ア  明治27年までの状況

 
  明治8年(1875)9月の江華島事件を契機として、翌9年2月26日江華島条約(日鮮修好江華条規)が締結され、65年ぶりに日鮮修好が復活した。この条約は、朝鮮の独立を確認し両国の友好を約したものである。これはすなわち清国の宗主権を否認 したものであり、ここに日清戦争の直接的原因が芽生えた。
  江華島条約締結後の朝鮮では、独立党の金玉均らが実権を握り、開化政策を推進し、日本も軍事顧問を派遣するなど積極的にこれを支援した。
  大院君ら保守派は、明治15年(1882)7月23日クーデターを起こして王宮を占拠、更に日本軍事顧問を殺害し、日本公使館を襲撃して放火した。これを壬午(じんご)の変という。日本は直ちに陸兵2コ中隊、軍艦数隻を派遣し、強硬に謝罪・賠償を要求した。一方、清国も陸兵6コ営、軍艦6隻を京城(ソウル)に派遣した。
  これは、大院君に王宮を追われた王妃閔(びん)氏一派の要請に応じたものである。
  その後清国の斡旋により、8月30日、日鮮間に済物捕(さいもつぽ)条約が調印され、日本は朝鮮から謝罪・賠償の他に、公使館護衛のための駐兵権を得た。日本は初めて海外に軍隊を駐留させることになった。
  さきに開化派と結んで大院君を追った閔妃は、壬午の変後、清国の援助で政権を回復すると、清国やロシアの支援を頼んで開化派を圧迫し始めた。立場を失った開化派の独立党は、明治17年(1884)年12月4日クーデターを起こし、国王を擁して革新を布告した。日本は兵約100名を派遣して王宮を警護するなどしてこれを助けた。
  閔妃は、また清国に援助を求めたので、袁世凱指揮の京城駐屯清国軍2000は、12月5日、王宮を攻撃した。日清戦争に先立つこと10年、ここに日清両軍が交戦している。しかし、国王がひそかに王宮を脱出して清軍に投じたので、日本軍は行動の名分を失い、かつ、兵力の差もあり、京城から撤収して仁川に退いた。これを甲申(こうしん)の変という。
  日本政府は再び問罪使を送り、明治18年(1885)1月9日、日鮮間に京城条約が締結された。また、伊藤博文らを天津に送って清国と談判させ、4月18日に至って、日清共に朝鮮から撤兵すること、将来朝鮮に変事があって両国または一国が派兵を要するときは予め通知することを約する天津条約を締結した。
  京城・天津条約が締結されたものの、その後、明治19年の長崎清国水兵暴行事件、明治22年の朝鮮咸鏡(かんきょう)道における防殻令事件、明治27年(1894)3月の上海における金玉均暗殺事件などが発生し、日清間の感情を激化させると共に、朝鮮半島の形勢は次第に日本側に不利に傾いていた。

  イ   開戦直前の状況

 
  明治27年(1894)4月、全羅北道に起こった東学党の乱は、瞬く間に民衆に伝播し、6月には全州以南ことごとく反乱軍の手中に陥る有様となった。
  朝鮮政府は、自力解決が困難であると判断して、6月3日清国に救援を願い出た。清国は直ちにこれに応じ、北洋水師をもって牙山・群山沖を哨戒するとともに、6月7日には陸兵第1陣約1000名の牙山上陸を開始した。この日、清国が日本に送った通知には、「属邦保護のため出兵」とあった。清国は、この派兵により朝鮮に対する宗主権を実証しようとしたものであり、明らかな天津条約違反であるが、これをもって日本が対清戦争を決意するとは思っていなかった。朝鮮政府も、日本が派兵して清国と戦争になっても清国が勝利すると確信しており、京城条約に関わらず清国依存の態度を変えなかった。
  6月7日、前述の通知を受け取った日本政府は、「朝鮮を貴国の属邦と認めることはできない」旨を回答し、続いて「居留民保護のため朝鮮に派兵する」と通知し、9日には広島第5師団の一部(一戸大隊)を宇品から出港させた。日本政府は、清国の派兵に備えて6月2日に第5師団に出動の内命を伝えていたが、6月5日には大本営を設置すると共に同師団の動員を下命し、まず混成第9旅団(旅団長:大島義昌少将)を派遣することにしていた。
  6月12日夜、一戸大隊が京城に到着したのを先頭とし、混成第9旅団約7000名が続いて仁川に上陸、主力をもって京城に進駐した。
  日本政府は、清国政府に対し、共同して朝鮮の内乱を鎮圧し、内政改革をすすめさせようと申し入れたが、清国はこれを拒絶した。英米露3国は、それぞれの立場で調停の労をとろうとしたが、清国は日本の撤兵の後でなければ一切の協議に応じないという態度を固持したため、いずれも失敗に帰し、各国とも傍観の立場にたった。
  7月12日、日本政府は対清第2次絶交書といわれる宣言を発し、7月19日には大鳥公使が朝鮮政府に清軍の撤収要求を含む「最後通牒」を手交した。
  6月中旬以来武力をもって京城を押さえていた日本は、閔妃に代わるものとして、隠棲中の大院君に出馬をうながした。7月23日、大院君は、日本兵に守られて王宮に入り、閔妃一派を一掃して政権を掌握し、対日協力の態度を明らかにした。
  この後、7月末に豊島沖海戦、成歓・牙山の戦闘が行われ、日清両国は戦争状態に入ったが、8月1日に至り、両国とも宣戦を布告した。

2  両国の軍備

(1)日本軍

  ア  陸  軍

    (ア) 平時編制

 
  総員6万余、7コ師団(近衛師団及び第1〜第6師団)。この他に、要塞砲兵4コ連隊があった。
  (注)平時の師団編制
    歩兵2コ旅団(1コ旅団は2コ連隊、1コ連隊は3コ大隊、1コ大隊は4コ中隊)
 
    騎兵1コ大隊(3コ中隊)(実際には近衛師団のみに編成)
    野戦砲兵1コ連隊(野砲2コ大隊、山砲1コ大隊、各大隊2個中隊、各中隊6門。近衛師団は2コ大隊のみ)

    工兵1コ大隊(3コ中隊)

    輜重兵1コ大隊(2コ中隊、近衛師団には欠)

 
(イ) 戦時編制
  明治26年(1893)改正された戦時編制によれば、動員兵力は約15万名、後備軍を加えれば約27万を有していた。このうち野戦7コ師団に充当したのは約123,000名で、戦闘員のうち歩兵約63,000名、騎兵約2,100名、野・山砲は約240門であった。

  (注)野戦師団の編制

  歩兵2コ旅団(各旅団2コ連隊、各連隊3コ大隊、各大隊4コ中隊、師団歩兵合計約11,500名。近衛師団は8コ大隊、歩兵連隊2,896名、馬188頭)

  騎兵1コ大隊(3コ中隊)

  野戦砲兵1コ連隊(平時編制に同じ)

  工兵1コ大隊(2コ中隊、近衛師団は1コ中隊)

  輜重兵1個大隊

  師団の兵員合計約18,500名(近衛師団は約13,000)

  歩兵は18年式村田銃(口径11mm、最大射程2,400m)に統一されていたが、近衛師団及び第4師団だけは明治27年から村田連発銃(口径8mm、最大射程3,100m)を装備された。野砲及び山砲は青銅製で、口径は75mm、最大射程は野砲5,000m、山砲3,000mであった。

  イ  海  軍

  
(ア) 軍 艦
 
  開戦前には、軍艦28隻(約576,000トン)、水雷艇24隻(約1,400トン)を保有していた。また、戦争間、商船4隻を武装して軍艦に代用したほか、捕獲艦艇12隻(約18,000トン)のうち1隻及び新造・購入艦艇9隻中4隻を戦争に参加させた。
 
(イ) 船 舶
 
  明治26年初頭現在の保有船舶は、汽船643隻(102,322トン)、帆船778隻(45,994トン)の計148,316トンに達していた。これが外征軍の兵員・物資の輸送を支えたのである。
 

(2) 清 軍

  ア  陸  軍

   (ア) 軍の種類

 
  清国陸軍の制度はきわめて複雑であり、また古色蒼然として、兵数は多かったが近代軍としての素質は不十分であった。
 
  兵制上は、「八旗」、「緑営」、「勇軍」、「練軍」の4種があった。
 
  「八旗」は、清朝創業に功績のあった満蒙漢人の子孫からなり、約288,000名といわれた。
 
  「緑営」は、清朝が中国平定後に主として漢人で編成したもので、約539,000名といわれる。
 
  「八旗」「緑営」は、いずれも建国当時の制度をそのまま受け継ぎ、近代軍と言うには値しないものだった。
 
  「勇軍」は、太平天国の乱平定のために新たに作った民兵軍である。
  
  「練軍」は、八旗の中から選抜して特別に訓練したものである。
 
    (イ) 編成・兵力
 
  編制単位は通常「営」と呼ぶが、「軍」「勇」「旗」「隊」等の呼称もあって錯雑している。

  兵種は、歩兵と騎兵の2種類だけで、工兵・砲兵・輜重兵等は歩兵営の中に含まれていたようである。

  歩兵営は約350名で合計862営、騎兵営は約250名で合計192営、合計約35万であるが、この他に新規募集の兵約60万があり、総計約95万に達した。しかし、本戦争に使用した兵力は直隷省近くにあった部隊だけである。それでも日本軍より遙かに多かったが、組織・練度は日本軍より劣っていた。

  また、兵器の種類も雑多であり、主体はモーゼル式小銃やクルップ式野砲・山砲であったが、総体的には日本軍に劣っていた。

   イ 海 軍

  
  清国海軍の中核は、北洋・南洋・福建・広東の4水師(艦隊)、軍艦総数82隻、水雷艇25隻計約85,000トンで、数・質共に平均して日本軍より優勢だった。中でも、北洋水師が最も強力で、その主力艦「定遠」「鎮遠」は7,350トンの甲鉄艦で、日本の主力艦「松島」級の4,278トンに比して強大であった。ただし、建造が古く、速力・火力は日本艦の方が優れていた。
 
  なお、戦争に参加したのは、北洋水師の全艦艇と広東水師の3艦艇で、軍艦25隻、水雷艇12隻計44,000トンだけであった。
 
  清国は、陸海軍共に日本を遙かに上回る兵力を保有していたが、戦争にはその一部しか使用できなかったのである。これは、当時の国際情勢のみならず、制度上の欠陥にもよるところがあった。

3 戦争の経過

(1) 宣戦布告前の戦闘

  ア   豊島沖海戦

 
  両国の宣戦布告は明治27年(1894)8月1日であるが、「最後通牒」を送った7月19日以降は、国際法上交戦の自由が認められていた。朝鮮西海岸制海の訓令を受けた連合艦隊(司令長官:伊東祐亨中将)は、7月23日佐世保を出港し群山沖に向かった。
 
  第1遊撃隊(後の巡洋艦隊)は、牙山付近の敵情偵察のため、更に北上を続けたが、7月25日朝、豊島沖において輸送船を含む清国艦隊と遭遇し、これを撃破して緒戦を飾った。

  イ  成歓・牙山の戦闘

 
  6月上旬、朝鮮政府救援の名目で出兵した清国は、軍の一部(葉志超指揮下の約4,000名)を牙山に上陸させると共に主力(約10,000名)を平壌に集中しつつあった。6月下旬に京城付近に集結した日本の混成第9旅団は約9,700名であった。
 
  7月25日、朝鮮政府は大鳥公使に対して牙山付近の清軍を撃退するように依頼、大島旅団長もまた平壌付近の清軍が南下する兆候を察知し、まず速やかに牙山の清軍を掃討して北方に備える必要を感じ、一部をもって京城・仁川・臨津鎮を守備させ、7月25日主力を率いて京城を出発、南下した。
 
  牙山の清軍は、その大部分をもって成歓に布陣し、葉志超は手兵と共に天安に移った。大島旅団長は、27日この敵情を知り、28日攻撃を準備、29日成歓の清軍陣地を攻撃し、2時間ほどの戦闘によりこれを撃破、敗軍を追撃して30日には牙山に入った。清軍の葉志超は、成歓の敗戦後、大迂回をして平壌に逃れ、再びその主将となった。大島旅団は、牙山を撤収して8月5日京城に帰り、北方に備えた。この作戦で、日本軍は死傷88名の損害を出したが、清軍に死傷約500名の損害を与え、砲8門、軍旗27旒その他物資を多数捕獲した。

  ウ  宣戦布告

 
  豊島沖開戦及び成歓の戦闘で、日清両国は事実上戦争状態に入ったが、8月1日両国とも宣戦を布告した。日本政府の勧告を容れて諸政刷新を断行した朝鮮政府は、8月26日、日鮮両国同盟条約に調印し、日本と攻守同盟を結んだ。

(2) 平壌の戦闘

 
  明治27年(1894)年8月下旬、平壌付近に集結した葉志超指揮下の清軍は、兵員15,000、野山砲32門、機関砲6門に達した。
日本軍は、大島旅団に引き続き、8月1日から29日の間に第5師団(師団長:野津道貫中将)主力を京城付近に集中させ、8月27日から30日にかけて第3師団の一部を元山に上陸させた。
 
  平壌に強力な清軍が集結したことにより、朝鮮政府内にこれをおそれる空気が強くなった。このため、野津中将は速やかに平壌の清軍を撃破する必要があると考え、師団主力の到着とともに断然攻撃することに決し、8月24日前進命令を下達した。
 
  8月30日には、第1軍(軍司令官:山県有朋大将)の編成が下令され、山県大将は第3師団(師団長:桂太郎中将)主力とともに、9月12日仁川に上陸した。第1軍の任務は、朝鮮半島において攻勢をとることであった。当時平壌作戦は、野津中将の計画によりすでに実施されつつあったので、山県大将は平壌攻撃を5師団に任せ、他の諸部隊を平壌付近に集結させるよう計画した。
 
  大島旅団(約3,600名)は、開城から北上し、9月6日頃から散在する敵騎兵を駆逐しつつ、9月12日大同江の右岸に達し、平壌を南側から攻撃する態勢をとった。
 
  朔寧(さくねい)支隊(約3,600名)は、新渓・谷山・成川を経て、9月14日には平壌東側に進出して清軍の退路を遮断する態勢をとった。
 
  元山支隊(約4,700名。3師団の一部で5師団に配属)は、9月1日元山を出発、陽徳・成川を経て、朔寧支隊と連携し、14日には平壌の東北側に迫った。
 
第5師団主力(約5,400名)は、大島旅団の後方を前進した。
 
  9月15日早朝から、各部隊は一斉に攻撃開始、16時40分頃清軍は白旗を掲げ、かつその大部分はこの夜の風雨に紛れて北方に撤退した。日本軍は、16日朝、わずかな残敵を掃討して平壌を占領した。日本軍の損害は死傷者686名、清軍の損害は戦死約2,000名、捕虜約600名であった。また、日本軍は、砲29門、機関砲6門、小銃1,160丁その他を捕獲した。

(3) 黄海の海戦

 
  日本艦隊は、直隷に陸軍部隊を上陸させるため、速やかに清国艦隊を撃破して渤海湾の制海権を確保する必要があった。平壌陥落の9月16日夕刻、伊東司令長官は「松島」以下12隻を率いて大孤山沖に向かった。
 
  清国の北洋水師提督丁汝昌もまた、16日未明、「定遠」以下18隻を率いて大連湾を出発、鴨緑江口に達して陸兵護送と警戒に当たっていた。
 
  17日11時前頃、日清両艦隊は互いに敵影を確認、12時50分頃から開戦が始まった。戦闘は日没まで続き、日本軍の勝利に終わった。清国艦隊は大打撃を受け、これ以降、威海衛に封じ込められ、、黄海の制海権は日本軍の手中に落ちたのである。

(4) 鴨緑江の戦闘

 
  平壌占領後、第1軍は明治27年(1894)9月29日までに同地付近に集結を完了した。山県司令官は、清軍が鴨緑江付近に増加しつつあるとの情報を得て、速やかに同方面に進出するに決し、10月3日主力の北上を開始した。
 
  清軍は、平壌での敗残軍に、「銘字軍」「毅字軍」などを増援に送り、九連城一帯で日本軍を阻止することにして、10月中旬には鴨緑江右岸約50〜60km正面に防御配備を整えた。右翼軍総指揮官は宋慶、左翼軍総指揮官は依克唐阿(いこくとうあ)であり、兵員約23,750名、砲81門、機関砲4門である。
 
  第1軍は、10月24日ようやく鴨緑江左岸に到着、25日払暁から主力が渡河を開始して、まず、虎山付近の陣地を攻撃した。清軍の宋慶は、毅字軍の全軍及び銘字軍の一部等に攻撃を命じたので、8時前後には日本軍先鋒は一時危機に陥った。しかし、日本軍も逐次後続部隊の到着とともに猛烈な攻撃を継続したので、清軍は遂に敗退し、日本軍は、昼頃までに虎山付近を占領した。
翌10月26日早朝、1軍は九連城に接近したがすでに宋慶以下の清軍は25日の内に鳳凰城に逃れていたので、これを無血占領した。一方、奥山支隊も10月26日早朝、安東県を無血占領した。
 
  かくして、第1軍は、第1目標である朝鮮からの清軍の駆逐という使命を果たし、更に満州・朝鮮国境の鴨緑江を渡河して国境の要衝九連城と安東県を無血占領して、清国領内に地歩を占めたのである。
 
  この後、第1軍は、主力をもって九連城、安東県の間において冬営にはいったが、10月30日に立見旅団(5師団の一部)に鳳凰城を、11月には大迫支隊(3師団の一部)に大孤山を占領させた。この冬営間、立見支隊は、草河口方面に出動し、12月10日には同地を占領、24日に鳳凰城に帰還した。

(5) 旅順の攻略

 
  黄海海戦の勝利により黄海の制海権を確保した日本軍は、明くる春の直隷平野決戦のためまず旅順を攻略することに決し、明治27年(1894)9月21日、第2軍(軍司令官:大山巌大将、第1師団・第2師団・第6師団の一部基幹の混成第12旅団)の編成に着手した。第2軍の任務は、「第1軍と気脈を通じ、連合艦隊と相協力し、遼東半島占領に努めよ。」というものである。
 
  第2軍は、10月24日(第1軍が鴨緑江渡河を開始した日)から花園口に上陸を開始した。戦闘に上陸した第1師団(師団長:山地元治中将)は、11月5日には金州城外に達した。清軍は当時鴨緑江方面に増援を送っていたので、金州には歩兵10コ営(約3,500名)を基幹とする部隊が守備していた。1師団は、11月6日朝、金州城外の清軍陣地を攻撃、2時間足らずでこれを撃破、引き続き金州城を攻撃し、11時頃これを占領した。更に、旅順・大連方面に退却する清軍を追撃した1師団は、8日早朝までに大連湾の諸砲台を全部占領した。
 
  旅順は北洋一の要港で、清国はこの防備に多大の努力を傾注したが、当時これを守備するにふさわしい能力を有する将帥がおらず、守備兵は新規徴募の者が多く、そのうえ金州・大連方面の敗残兵が入り込んで士気が低下していた。さらには、この時の旅順守備の最高指揮官がはっきりと決められていなかったので、指揮の不統一と衆心の不一致を助長した。
 
  当時第2師団(師団長:佐久間左馬太中将)はまだ広島で待機中であったが、旅順の防備の弱点を看破した大山軍司令官は、手持ちの第1師団及び混成第12旅団のみをもって攻略することに決め、11月13日その計画を作成した。
 
  11月18日、捜索騎兵隊が、出撃してきた6〜7倍の兵力の清軍と土城子付近で遭遇し、苦戦に陥って一時後退する場面もあったが、旅順要塞は11月21日のわずか1日攻撃で陥落してしまった。なお、この戦例は、10年後の日露戦争の際の旅順要塞総攻撃の際に日本軍に災いすることになる。

(6) 海城付近の戦闘

 
  山県第1軍司令官はかねて、戦争の早期終結のためには清軍主力との決戦を急ぐべきだと考えていたが、そこに第2軍の旅順占領の報がはいり、更に柝木城・海城・蓋平方面の清軍が増加しつつあるとの情報を承知するにいたり、独断で第3師団を進めて海城を攻略させることにした。これは将来の直隷決戦の準備のため、大連方面への第1軍の転進を容易にする目的であったが、大本営の意図とは多少食い違っていた。大本営が11月9日山県軍司令官に与えた回答は、当面第1軍を靉河(あいが)、太洋河流域に冬営させ後命を待て、という趣旨のものであった。
 
  この措置との関連性はともかく、「寒冷の異境に老将病む」との報が大本営に伝わり、明治天皇は勅使を派遣して軍司令官を交代させた。12月9日以降第1軍司令官代理には第5師団長野津中将が就任し、第5師団長には12月29日奥保鞏(やすかた)中将が着任した。
 
  12月1日に海城攻撃の命を受けた3師団(歩兵2コ大隊と砲兵1コ中隊が欠)は、9日岫厳(しゅうがん)を出発し、12日柝木城を無血占領、13日には約5,000の清軍が守備する海城を攻撃、占領した。
 
  海城を奪われた宋慶はその奪回を企図し、蓋平・牛荘(にゅうちゃん)・鞍山站に兵を集結させ、三方から海城を包囲する態勢を示した。桂師団長は、機先を制して清軍の企図を破砕するに決し、12月19日早暁から行動開始、紅瓦寨(こうがさい)付近において、蓋平から牛荘に前進しようとしていた宋慶指揮下約1万の清軍と遭遇、これを西方に撃退し、21日海城に帰還した。その後も清軍は1月17日から2月27日の間に5回の攻撃を実施したが、第3師団はこれらを撃退し、海城を保持した。

(7) 蓋平付近の戦闘

 
  明治27年(1894)12月13日海城を占領した第3師団は、3方向に優勢な敵を受けて形勢不利に陥ったので、桂師団長は、第2軍の一部をもって蓋平付近の敵を撃退されたい旨を第1軍司令官代理野津中将に具申した。野津中将からこの要請を受けた第2軍は、すでに威海衛攻略の任務を受領していたためいったんこの要請を断った。その後、大本営と第1・2軍との間で検討の結果、ようやく12月29日になって乃木希典少将を長とする混成第1旅団を蓋平に派遣し、第3師団と連絡し、要すればその作戦を援助させることになった。乃木旅団は、明治28年(1895)1月3日普蘭店を出発、10日払暁から蓋平東西の線に陣地を占領した清軍を攻撃、午前中に蓋平を奪取し、じ後同地を守備した。

(8) 遼河平原の掃討

 
  日本軍は、明治28年の春の到来とともに陸軍主力を直隷平野に上陸させる腹案であったが、このため第1軍の転進を可能にしなければならず、営口・牛荘・遼陽方面の清軍を撃退しこれと隔離を図る必要があった。
 
  一方、清軍は、渤海湾が結氷して直隷平野が安全な間に山海関付近に集結している部隊を遼東に進め、この地で一挙に決戦を交えようと考え、1月下旬から続々と遼河河畔に兵を集めた。
 
  大本営の了承を受けた第1軍は、まず、鞍山站・牛荘・営口付近の清軍を撃退した後、大連湾方面に転進する目的を持って2月下旬行動を開始した。
 
  2月19日鳳凰城を出発した第5師団は、途中で小規模戦闘を繰り返しながら、3月2日昼頃予定どおり鞍山站に到着したが、この地はすでに第3師団が無血占領していた。
 
  3師団は、2月28日海城から出撃し、沙河沿・大豊屯付近の清軍を駆逐し、3月1日には甘泉堡を占領し、2日朝には、すでに清軍が敗走していた鞍山站に入っていたのである。
 
  北方の清軍が遼東方面に退却したので、野津軍司令官はこの機に乗じて清軍と隔離し、急転して牛荘を攻撃するに決し、第3師団・第5師団を合わせ、予定の休止を取りやめて牛荘に向かい急行した。3月4日早朝、第5師団をもって東面から、第3師団をもって西北面から牛荘攻撃を開始したが、退路を失った清軍の激しい抵抗により至るところで激戦となり、翌3月5日11時頃ようやく占領した。
 
  これより先、2月7日、第2軍に属する第1師団は、第1軍の作戦に協力するよう定められた。山地中将は第1師団主力を率いて北上、蓋平で乃木旅団を合わせ、2月24日には営口方面から前進してきた清軍と戦って大平山付近を占領していた。1師団は1軍と協力して3月7日に営口を攻撃する予定であったが、営口の清軍が退却してしまったので、3月6日これを占領した。
 
  3月9日、第1軍の2コ師団と第1師団は、協力して3方向から田庄台の清軍を攻撃することになった。清軍は約2万、日本軍は約1万9千であった。ここでも激烈な市街戦が展開されたが、午前中には日本軍の占領するところとなった。
 
  日本軍の作戦目的は、当面の敵を撃退して隔離を図り直隷平野の決戦を準備することにあったので、追撃を実施せず、第1師団は蓋平付近、第3師団は紅瓦寨(こうがさい)付近、第5師団は海城付近に集結した。なお、第1師団は3月20日に第1軍に編入された。

(9) 威海衛の攻略

 

  明治27年(1894)12月4日、大本営は、大山第2軍司令官と伊東連合艦隊司令長官連名の意見具申を採用し、直隷平野の決戦に先立って威海衛を攻略して北洋水師を撃滅することに決定した。12月16日、戦闘序列(戦時または事変に際し、天皇が令する作戦軍の編組であり、これによって統率の関係が律せられた)の変更が下令され、大山司令官は2師団及び6師団主力をもって連合艦隊と協力し威海衛軍港を占領するよう訓令を受けた。

  清国側は、開戦前から山東半島防備の必要性を感じていた。殊に11月21日旅順陥落後は天津・烟台・山海関と共に威海衛の防備強化に努力したが、満州前線の増援に兵力を転用したしたうえに、相次ぐ敗戦に新規徴募の兵は集まらず、日本軍が上陸した栄城方面までは手が回らなかった。

  山東作戦部隊は、明治28年1月14日から21日の間に大連湾に集結し、1月20日から26日の間に栄城湾に上陸、直ちに陸路を威海衛に向かい、30日払暁から攻撃を開始した。

  1月30日8時30分頃、摩天嶺砲台がまず陥落し、続いて昼頃までに楊峰嶺砲台を含む南岸一帯の砲台線と東南鳳林集付近の高地が日本軍に占領された。2月2日、第2師団は威海衛市街及び軍港北岸の砲台を占領した。清国艦隊はなお港内にあって、日島・劉公島の砲台と共に日本軍を砲撃して抵抗を続けたが、陸軍に呼応する連合艦隊の砲撃及び水雷艇の挺進攻撃により、清軍の丁汝昌は2月11日自決し、翌12日残将をして降伏させた。降伏条約の締結は14日で、17日には艦船・砲台等全ての接収が終わった。

  第2軍は、2月4日に山東撤去に関する訓令を受けていたが、2月22日から3月1日までに旅順に帰着、5日までに揚陸を完了し、その後は遼東半島にあって直隷作戦を準備した。

(10) 澎湖島の占領

 
  大本営は、早くから南方作戦を考えていたが、北洋水師の撃滅に手間取ったため、その機会を得られずにいた。しかし、明治28年1月13日威海衛攻略の目途が立ったので、澎湖島を占領してここに海軍の根拠地を設営して清国南部艦隊を撃滅し、禁制品の密輸を遮断しようとした。この命令は、2月20日連合艦隊に下達された。
 
  威海衛攻略作戦後の整備を終えた南方派遣艦隊(歩兵3コ大隊・山砲1コ中隊基幹の混成支隊を含む)は、伊東中将指揮のもと、3月15日に佐世保を出港、23日混成支隊を澎湖島に敵前上陸させ、26日完全にこれを占領した。

4 戦争の終結

(1) 講 和

 
  日本側は、直隷平野における第2期作戦準備のため、明治28年(1895)3月15日、参謀総長小松宮彰仁(あきひと)親王を征清大総督に任じ、第1軍・第2軍の戦闘序列を変更した。近衛師団・第4師団もまた4月18日までに大連湾に到着した。
大本営は、直隷の清軍を20万と判断し、これに対して約7コ師団と後備部隊の3分の1を使用する計画であった。
 
  休戦の交渉はすでに明治27年11月22日旅順陥落の日に米国公使を経て清国から提議があったが、全権の資格問題などでまとまらず、明治28年3月20日からようやく下関において清国全権大使李鴻章と日本全権大使伊藤博文との間で開始され、3月30日休戦条約、4月17日講和条約が調印され、5月8日には批准交換を終わった。
 
  講和条約の内容は次のとおりである。
 
1.清国は朝鮮の独立を確認する。
2.遼東半島・台湾・澎湖島を割譲する。
3.賠償金2億両(テール)を支払う。
4.重要な港湾市街を開市する。
5.条約履行の担保として日本は威海衛を占領し、清国はその費用を負担する。
 
  旅順にあった征清大総督は、5月10日講和批准の報を受け各部隊に作戦行動の中止を命じた。また、条約に基づいて、旅順に2コ師団が残され、威海衛に1コ混成旅団、台湾に1コ師団が派遣されることになり、その他の部隊は5月中旬から逐次内地に凱旋した。
 
  ところが、講和条約の調印がすんだ後の4月23日、露独仏3国は「日本が遼東半島を占有することは東洋平和の障害になる」という理由でその放棄を求めてきた。これがいわゆる「3国干渉」で、後の日露戦争の一要因となった。当時海軍力が微弱であった日本は、涙をのんでこの提議を受け入れ、3千万両の代価と引き替えに半島還付に決し、5月4日この旨を3国に通知した。

(2) 台湾征討

 
  講和条約によって日本領となった台湾だったが、当時台湾には劉永福らを指導者とする約5万の軍隊があり、日本への帰属に反対し、5月25日には共和政府をたてて独立を宣言した。
 
  台湾総督となった樺山資紀海軍大将は、5月29日、近衛師団(師団長:北白川宮能久親王)と共に三貂角(さんちょうかく)に上陸、北部を平定して、6月22日台北に台湾総督府を開庁した。
 
  しかし、南部にはまだ劉永福らが残っていて帰服しないので、8月20日副総督に任ぜられた高島鞆之助陸軍中将が第2師団(師団長:佐久間左馬太中将)とともに台湾南端に上陸、南北呼応して討伐に努めた結果、10月末頃おおむね全島を平定した。しかし、完全に掃討が終わったのは明治29年3月である。
 
  台湾征討による日本軍の戦死傷は約700名であったが、病気のための損耗は約2万名に達した。病死の中には近衛師団長北白川宮能久親王も含まれている。

(3) 戦争の結果

 
  日清戦争は、明治27年(1894)8月1日から明治28年4月17日講和条約調印までであるが、実際の戦闘は、明治27年7月25日の豊島沖海戦に始まり、明治29年3月の台湾征討の終了まで続いた。
 
  この間の日本軍の損害は次のとおりである。
  
  1.人  員
   戦死・戦病死・・・・・・・・・1,417名
   病  死・・・・・・・・・・・・11,894名
   変  死・・・・・・・・・・・・・・・・177名
   合  計・・・・・・・・・・・・13,488名
   傷病による兵役免除・・・3,794名
   合  計・・・・・・・・・・・・17,282名
  2.軍  馬・・・・・・・・・・・11,532頭
  3.臨時軍事費
   陸  軍・・・・・164,520,371円
   海  軍・・・・・・35,955,137円
   合  計・・・・・200,475,508円
 
  ただし、臨時軍事費は賠償金でほとんど補うことができた。
  清国の損害の細部は不明であるが、日本軍が捕獲したものは、兵員1,790名、火砲592門、その他である。
 
  本戦争は、直接原因を作った朝鮮はもとより、諸外国はいずれも清国の勝利を信じて疑わなかった。当時の清国は、アヘン戦争以来じり貧の状態にあったものの、「眠れる獅子」と見なされ、国運をかけて立ち上がればなお強大な底力があるものと考えられていた。しかし、全体の力がいかに強大であっても、1つの目的に集中できない力は無きに等しい。
 
  日本は、最悪の場合には退いて国土を防衛することまで考えた上で戦争に踏み切ったが、連勝して戦争目的を完遂し、朝鮮独立問題は解決した。そのうえ、日本は自らの力を自覚し、東アジアにおける指導者の立場に近づいた。しかし、清国の敗戦は、その後の衰退に拍車をかけ、列強の中国への進出を更に激しいものにし、後日の中国共産主義の発生拡大の素地を肥やし、中国をめぐる国際問題紛糾の一因ともなった。また、力の伴わない朝鮮の独立は、ロシアの南下を促進し、日露戦争への道を開いたのである。
 
(4) 日本軍の戦略・戦術

   ア 戦争指導

 
(ア) 政略・戦略指導の節調
 
  戦時大本営条例によると、陸海軍将校以外は大本営の幕僚となることができなかったが、伊藤首相は勅許を得て大本営会議に列席し、政戦両略の節調を図りつつ、巧みに戦争を指導した。
 
(イ) 戦争指導上重視された事項
 
  a 政戦両面からの周密な計画・指導
  
  b 大本営と現地司令官との一貫した思想の一致と相互の責任の分界の明確化
  
  c 陸海両軍の緊密な連携
 
  d 外交操縦と軍事方略との連携保持による適時の戦争終結
 
(ウ) 終戦指導
 
  清朝を瓦解させずに講和に導くことが、列強の干渉を防止するために最も重要であった。そこで、伊藤首相と陸奥外相は、細心の注意を払って戦争を指導した。伊藤首相のみならず、陸奥外相までもが大本営会議に参加し、進んで作戦を論じたことは注目に値する。
 
  当時の指導者層は、自らが倒幕運動に参加して死生の間をくぐってきており、政治家といえども戦争の何たるかを知っていたところに、適切な終戦指導ができた1つの要因がある。

  イ 戦略の特色

 
(ア) 短期決戦主義
 
  日本の国力及び周囲の情勢から、必然的に速戦即決によって列強に干渉の隙を与えまいとする短期決戦の思想を生じた。
 
(イ) 緒戦(初動)の重視
 
  緒戦重視の思想は、ナポレオン戦争頃からの欧州諸国の考え方であり、プロシア・フランス等の戦術を学んだ日本軍にも多分に影響を及ぼしたものと思われる。日本軍の作戦計画は、動員・集中・展開の迅速を主眼とし、緒戦を重視して策定されていた。 
 
(ウ) 制海権
 
  日清戦争の帰趨は、制海権の行方にあった。   従って、作戦計画も制海権獲得の程度に応じて融通性を保持していた。また、作戦に当たっては、陸海軍の統合運用に特に留意して成功を収めた。

  ウ 戦術・戦法

 
  当時の主要兵器は小銃であって、散兵の一斉射撃によって敵を制圧し突撃に移る、というのが一般的な戦法であった。散兵の間隔は密で、小銃火力の密度を増大するよう着意されていた。
 
  最も重視され、これによって戦闘に決を与えたのは、白兵戦であった。この白兵戦思想は第二次大戦まで続いた。
 
  日清戦争において、日本陸軍は13年式村田銃及び18年式小銃を主に装備していたのに対して、清国軍は外国製の種々雑多な小銃を装備したに過ぎず、この装備の差が勝敗に結びついた。
 
  砲兵は、暴露陣地から直接照準で榴霰弾射撃を実施するのが一般的な戦法であり、単純で幼稚なものであった。
(10.6.13更新、16.12.15修正)

 「日清戦争後の陸軍の拡充」を読む

「戦史のコーナー」ページに戻る