支 那 事 変

1 事変の要因

1 日本側の要因

  1930年代の世界は、米英仏を中心とする帝国主義的旧秩序維持派と、独伊を代表とする全体主義による新秩序建設派の2大勢力が、経済的対立から武力的対立へと移行した時代である。 この間、革命を成し遂げてようやく国力を回復してきたソ連が、その体質と長期的世界政策とにより、米英仏側に接近し、独伊側と対立する立場をとり、複雑怪奇な情勢を作った。
 
  第一次世界大戦では米英仏側に与した日本だったが、近代国家としての後進性と地理上の特殊性から、アジア政策上やがて米英仏などと対立し、独伊に接近して独自の道を歩むことになった。 すなわち、昭和8年(1933年)3月27日には国際連盟を脱退し、昭和11年(1936年)11月には「日独防共協定」を締結、更に支那・満洲を含む東亜ブロックを形成して発展の道を開拓しようと図ったのである。

2 支那側の要因

  1911年、清国では”辛亥革命”が起こって、「中華民国」が成立したが、その体質の違いから日本のように近代国家としての体制を急速に確立することができなかった。 国民党ナンバー2であった汪兆銘(精衛)を凌いで孫文の跡を継いだ蒋介石は、国内において軍閥と封建勢力を打倒するとともに、1921年に誕生した共産党を掃滅して、近代的統一国家の体制を確立することを図り、同時に19世紀前半清朝時代から続いている列強の帝国主義を排除して国権回復を企図した。
 
  北伐は完成したが、まだ完全に封建色が一掃されたわけではないので、1930年頃国民政府は軍閥勢力の統合を図りつつ新たな脅威になった共産党の掃滅をおこなった。 一方、1926年頃から、それまで清国をさんざん”食い物”にしてきた英国の対支那政策が協調に変わり、これに伴って支那の排外運動は急転して排日に固まる傾向を示した。
 
  蒋介石は、当初「排外国権」よりも、むしろ「剿共国内統一」を優先した。 かくして、1930年から5次にわたる掃共戦をおこない、1934年には中国共産党の根拠地瑞金(ずいきん)を攻略して毛沢東を延安に追い、昭和11年(1936年)第6次掃共戦を実施した。
  
  共産党は、この苦境から脱するため、これまでの反蒋抗日政策を修正し、1935年8月に抗日民族統一戦線の結成を呼びかけ、国民党に対して内戦停止と一致抗日を要求した。 同年11月には綏遠(すいえん)事件があり、12月には東北軍の張学良による蒋介石の監禁事件(西安事件)が起こって、蒋介石は共産党の主張に同意し、事態は急変して第二次国共合作の気運が促進され、全土で挙国抗日に向かっていった。

(平成11年6月13日)


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