支 那 事 変

2 蘆溝橋事件前の北支方面の状況

1 中国側の状況

 (1) 第二十九軍(総兵力:約75,000)

    ● 軍司令部(司令:宋哲元、副司令:秦徳純、参謀長:張越亭)

    ● 第三十七師(師長:馮治安。約15,750名。西苑(北平〜蘆溝橋〜保定〜望都) )

    ● 第三十八師(師長:張自忠。約15,400名。南苑(固安〜天津〜大沽〜滄州) )

    ● 第百三十二師(師長:趙登禹。約15,000名。河間)

    ● 第百四十三師(師長:劉汝明。約15,100名。張家口〜蔚県)

    ● 独立第三十九旅(旅長:阮玄武。約3,200名。北苑(昌平〜通州) )

    ● 独立第四十旅(旅長:劉汝明(兼務)。約3,400名。懐来)

    ● 騎兵第九師(師長:鄭文章。約3,000名。南苑(蘆溝橋) )

    ● 独立騎兵第十三旅(師長:旅長:姚景川。約1,500名。宣化)

    ● 特務旅(旅長:孫玉田。約4,000名。南苑(北平〜蘆溝橋〜保定〜望都) )

    ● 河北辺区保安隊(司令:石友三。約2,000名。黄寺)

 (2) その他、河北省・山西省・山東省には、次の部隊が駐留しており(7月上旬)、その兵力は約78,000に達していた。

    ● 第三十九師

    ● 第六十八師

    ● 第九十一師

    ● 第百一師

    ● 第百十六師

    ● 第百十九師

    ● 第百三十師

    ● 第百三十九師

    ● 第百四十一師

    ● 第百四十二師

    ● 騎兵第二師

 (3) 事件発生前の中国軍の動き

    事件発生前、蘆溝橋付近における中国軍の動静には不穏な動きが日増しに顕著になっていた。 この模様を『支那駐屯歩兵第一聯隊戦闘詳報』は次のように記述している。 なお、〔緑文字〕は著者脚註。

事件発生前蘆溝橋附近ノ支那軍ハ其兵力ヲ増加シ且其態度頓ニ不遜トナレリ  其変化ノ状況左ノ如シ

一 兵力増加ノ状況

  平素蘆溝橋附近ニハ城内ニ営本部ト一中隊ヲ 長辛店ニハ騎兵約一中隊ヲ駐屯セシメアリシカ 本年五月中、下旬ニ至ル間ニ於テ 城内兵力ニハ変化ナキモ 蘆溝橋城〔宛平県城〕外ニ歩兵約一中隊ヲ 蘆溝橋中ノ島ニ歩兵約二中隊ヲ夫々配置セリ  六月ニハ長辛店ニ新ニ歩兵第二一九団ノ約二大隊ヲ増加スルニ至レリ

二 防禦工事増強ノ状況

  長辛店北方高地ニハ従来高地脚側防ノ為ニ機関銃陣地ヲ永久的ニ二箇所構築シアリ  又高地上ニハ野砲陣地ヲ構築シアリシカ 六月ニ入リテ新ニ散兵壕ヲ構築シ 蘆溝橋附近ニ於テハ龍王廟ヨリ鉄道線路附近ニ亙ル間ノ堤防上及其東方台地ノ既設散兵壕ヲモ改修増強シ 而モ従来土砂ヲ以テ埋没秘匿シアリシ「トウチカ」(従来ヨリ北平方向ニ対シ進出掩護又ハ退却掩護ノ意図ヲ以テ蘆溝橋ヲ中心トシ十数個ヲ橋頭堡的ニ永定河左岸地区ニ構築シアリタリ)ヲ掘開ス(主トシテ夜間実施セリ)

三 抗日意識及我ニ対スル不遜態度濃厚トナリ蘆溝橋城内通過ヲモ拒否ス

   蘆溝橋城内通過ニ関シテハ昨年豊臺駐屯当初ニ於テハ我部隊ノ通過ヲ拒否スルコトアリシヲ以テ之ニ抗議シ通過ニ支障ナカラシメ 特ニ豊臺事件以後ニ於テハ支那軍ノ態度大ニ緩和シ日本語ヲ解スル将校ヲ配置シ誤解ナカラシムルニ努メシ跡ヲ認メシモ 最近ニ至リ再ヒ我軍ノ城内通過ヲ拒否シ其都度交渉スルノ煩瑣ヲ要シタリ

四 演習実施ニ対スル抗議

   蘆溝橋附近一帯ハ北寧線路用砂礫ヲ採取スル地区ニシテ荒蕪地ニ適スル落花生等ノ耕作物アルニ過キス 従テ夏季一般ニ高梁ノ繁茂スル時期ニ於テハ豊臺駐屯部隊ニトリ此ノ地区ハ唯一ノ演習場ナリ

   然ルニ最近ニ於テハ我演習実施ニ際シテモ支那軍ハ畑ヘノ侵入ヲ云々シ或ハ夜間演習ニ就テモ事前ノ通報ヲ要求スルカ如キ言ヲ弄シ或ハ夜間実弾射撃ヲ為ササルニ之ヲ実施セリト抗議シ来ル等逐次其警戒ノ度ヲ加ヘタリ

五 行動区域ノ制限

   従来龍王廟堤防及同所南方鉄道「ガード」ハ我行動自由ナリシカ最近殊ニ六月下旬頃ヨリ之ヲ拒否シ我兵力少キ時ハ装填等ヲ為シ不遜ノ態度ヲ示スニ至レリ

六 警戒配備ノ変更

   六月下旬ヨリ龍王廟附近以南ノ既設陣地ニ配兵シ警戒ヲ厳ニス 殊ニ夜間ハ其兵力ヲ増加セルモノノ如シ

   一文字山付近ニハ従来全然警戒兵ヲ配置シアラサリシカ 夜間我軍ニテ演習ヲ実施セサル場合ニハ該地ニ兵力ヲ配置シ黎明時之ヲ撤去セルヲ見ル

   北平附近支那軍ノ状況ハ本年春夏ノ候ヨリ相当戦備ヲ進メアリタルヲ看取セラル  本年六月ニ至リ北平城各門ノ支那側守備兵増加セラレ且警備行軍ト称シ特ニ夜間ニ於テ北平市内及郊外ヲ行軍シアル部隊ヲ縷々目撃セリ

 その他の外国軍隊の状況

  当時の北支には、英・米・仏・伊の4カ国も軍隊を駐屯させていた。 いずれも司令部を天津に置き、部隊を天津・北平に駐屯させ、更に小部隊を塘沽・秦皇島・山海関に分屯させている国もあった。

  英軍は、在香港支那駐屯軍司令官に属し、天津772名、北平236名、合計1,008名で、2年交代制であった。

  米軍は、比島軍司令官の隷下にある天津の658名、本国海軍省に直隷する北平の海兵隊508名、その他61名で、合計1,227名。

  仏軍は、在支全駐屯軍を指揮する在天津軍司令官の隷下に、天津1,375名、北平229名、その他219名の合計1,823名。

  伊軍は、在上海極東艦隊司令官隷下の海兵隊が天津229名、北平99名、合計328名であった。

  なお、そもそも、日本を含むこれら列国が北支に持つ駐兵権の法的根拠は、明治34年9月7日の北清事変(義和団の乱)最終議定書にある。 同書第7条の「各国が其の公使館防禦の為め公使館所在区域内に常置護衛兵を置く権利」及び第9条の「各国が首都海浜間の自由交通をせしむる為めに相互の協議を以て決定すべき各地点を占領するの権利」を清国政府が認めたのである。 各国の占領する地点は「黄村、郎坊、楊村、天津、軍糧城、塘沽、蘆臺、唐山、樂州、昌黎、秦皇島、山海関とす」と規定した。  次いで、明治35年、天津還付に関する列国との交換公文により天津全市の駐兵が認められた。  こうして駐兵権を得た列国は、国際会議によって兵力割り当てをそれぞれ受けた。  守備担任区域と各地兵数は、北平外交団の諮問に基づき、列国派遣軍司令官会議によって決定された(総兵力14,400名)。  上記議定書及び協定により列国の軍事上の権利及び清国の遵守すべき権利・義務が次のように定められた。

  一 天津市周辺近くに清国軍隊の駐兵を禁ずる。

  二 白河河口、秦皇島、山海関の海防的設備の撤去

  三 各国は公使館所在区域に常置護衛兵を置く権利

  四 列国の守備する鉄道沿線両側二哩(マイル)以内の区域における軍事裁判権(弾圧治罪権)の保持

  五 外国軍隊及び軍需品に対する納税免除

  六 外国軍隊が操練を実施し射撃及び野外演習を行う自由。  ただし、戦闘射撃の際は通告する。

  七 外国軍隊の夏季用駐屯地を占領する権利

  その後、昭和2年、蒋介石の北支が混乱に陥ったとき、天津で列国司令官会議が開催され、駐屯兵力が20,000名に増強され、更に所要に応じて派遣する増援隊5,000名を必要とすると決定した。

  しかし、以上のような決定は厳密には守られず、平時においては各国兵力は三分の一以下になったが治安が悪化すると各国は割り当て以上の派兵を行った。  最初に国際決議を破ったのは米国である。  明治44年、辛亥革命の時に一方的処置で兵力を増強した。  英国も、大正14年6月、北支の事態が穏やかでないという理由で、単に関係国(ただし、当の中国を除く)に通告しただけで増兵した。 昭和2年には、蒋介石の北伐で北支情勢が緊迫すると、米・英・仏・日が増兵するなど、各国は情勢の変化に応じて任意に増強撤収の処置をとったのであるが、これについては関係国は黙認するのが慣例となっていた。

3 日本側の状況

 (1) 支那駐屯軍(総兵力:約5,600)の編成

    ● 天津部隊

     軍司令部(軍司令官:田代皖一郎中将、参謀長:橋本群少将)

     支那駐屯歩兵第一聯隊第二大隊

     支那駐屯歩兵第二聯隊(第三中隊及び第三大隊欠。聯隊長:萱嶋高大佐)

     支那駐屯戦車隊(隊長:福田峯雄大佐)

     支那駐屯騎兵隊(隊長:野口欽一少佐)

     支那駐屯砲兵聯隊(第一大隊:山砲2コ中隊、第二大隊:十五榴2コ中隊。聯隊長:鈴木率道大佐)

     支那駐屯工兵隊、 支那駐屯通信隊、 支那駐屯憲兵隊、 支那駐屯軍病院、 支那駐屯軍倉庫

   ● 北平部隊

     支那駐屯歩兵旅団司令部(旅団長:河邉正三少将−陸士19期)

     支那駐屯歩兵第一聯隊(第二大隊及び1コ小隊欠。聯隊長:牟田口廉也大佐−陸士22期)

     電信所、 憲兵分隊、 軍病院分院

   ● 分遣隊

     通州(支歩一の1コ小隊)

     豊臺(支歩一第三大隊、歩兵砲隊)

     塘沽(支歩二第三中隊)

     唐山(支歩二第七中隊)

     樂州(支歩二第八中隊)

     昌黎(支歩二の1コ小隊)

     秦皇島(支歩二の1コ小隊)

     山海関(支歩二第三大隊本部、第九中隊(1コ小隊欠))

   ● 以上の他、次のような陸軍機関(一般には「特務機関」と呼ばれた。)等があった。

     北平陸軍機関(機関長:松井太久郎大佐−陸士22期。輔佐官:寺平忠輔大尉−陸士35期。第二十九軍軍事顧問:中島弟四郎中佐−24期、櫻井徳太郎少佐−30期、笠井半蔵少佐)

     通洲陸軍機関(細木繁中佐−25期、甲斐厚少佐)

     太原陸軍機関(河野悦次郎中佐−25期)

     天津陸軍機関(茂川秀和少佐−30期)

     張家口陸軍機関(大本四郎少佐−30期)

     済南陸軍機関(石野芳男中佐−28期)

     青島陸軍機関(谷萩那華雄中佐−29期)

     北平駐在武官輔佐官(今井武夫少佐−30期)

     陸軍運輸部塘沽出張所  

 (2) 当時の支那駐屯軍司令官の基本任務は、「臨参命第51号」(昭和11年5月6日)により、次のように規定されていた。

命 令   

 一 支那駐屯軍司令官ハ渤海湾ノ海港ヨリ北平ニ至ル交通ヲ確保シ且北支那主要各地帝國臣民ノ保護ニ任スヘシ

 二 昭和八年五月関東軍代表カ北支中國軍代表ト締結セル停戦協定ニ関スル中國側履行ノ監視ハ満洲國ノ防衛ニ直接必要ナルモノノ外自今支那駐屯軍司令官ニ任スヘシ

 三 細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム

  (3) 関東軍及び支那駐屯軍の配置・兵力行使に関する指示は、「臨命第330号」(同日付)により、次のように示された。

指 示

臨参命第五十一号ニ基キ左ノ如ク指示ス

 一 支那駐屯軍司令官カ常時軍隊ヲ駐屯セシメ得ル地域ハ概ネ渤海湾ヨリ北平ニ至ル鉄道線ノ沿線トス

 二 支那駐屯軍司令官ハ停戦協定地域ノ治安維持ノ為必要ナル場合ニハ同地域ニ兵力ヲ行使スルコトヲ得

 三 関東軍司令官ハ満洲國ノ防衛ニ直接必要ナル場合ニハ隷下軍隊ノ一部ヲ長城線ノ外側近ク配置及行動セシムルコトヲ得

 四 支那駐屯軍司令官並関東軍司令官第二項第三項ノ実力ニ方リテハ予メ参謀総長ニ報告スヘシ

  (4) 蘆溝橋付近の日本軍の状況

      『支那駐屯歩兵第一聯隊戦闘詳報』に、次のように記されている。

  駐屯軍ハ我行動ヲ慎重ニシ事端ヲ醸ササランコトニ努ムルト共ニ本然ノ任務達成ニ遺憾ナカラシムル為メ鋭意訓練ニ従事シ特ニ夜間ノ演練ニ勉メタリ  而シテ蘆溝橋附近ハ地形特ニ耕作物ノ関係上豊臺部隊ノ為ニモ演習実施ニ恰適ノ地ナリ

  蘆溝橋附近ノ支那軍ノ増強ハ他ノ各種ノ徴候ヨリ判断シ全般的関係乃至ハ南京側ノ指令ニ依ルモノト判断セラルルモ仮リニ我部隊ノ動静カ彼等ノ神経ヲ刺戟シタリト思惟セラルル事項ヲ挙クレハ左ノ如シ

一 豊臺駐屯隊ノ中期(五月乃至六月ニシテ其間中隊及大隊教練ヲ演練シ特ニ中隊教練ノ練成期ヲ五月、六月トス)ニ於ケル中隊教練ヲ昼夜ヲ論セス実施セリ

二 豊臺駐屯隊ニ対スル軍ノ随時検閲ヲ五月下旬該地ニ於テ実施セラレ軍幕僚ノ大部一文字山ニ参集ス

三 聯隊長ノ行フ豊臺部隊ニ対スル中隊教練ノ検閲ヲ該地ニ於テ実施スル如ク計画セリ  随テ補助官ハ度々該地一帯ヲ踏査セリ

四 旅団長、聯隊長ハ該地附近ニ於テ実施セル演習ヲ視察セリ

五 本年五月及七月上旬ニ亙リ歩兵学校教官千田大佐ノ新歩兵操典草案普及ノ為ノ演習ヲ蘆溝橋城北方ニ於テ実施シ北平及豊臺部隊ノ幹部多数之ニ参加セリ   聯隊長ハ支那側全般的ノ動静カ何ントナク険悪ヲ告ケ情勢逐次悪化シ抗日的策動濃厚トナリアルヲ看取シ部下一般ニ注意ヲ倍徒シ彼等ニ乗セラレサルト共ニ出動準備ヲ完整シ置クヘキヲ命シ特ニ豊臺駐屯隊ニ対シテハ「トウチカ」発掘及工事増強ノ情況ニ就テ注意スヘキヲ命シタリ

(平成11年7月12日)


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